第一部/担当編集×小説家⑦<1>

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(今日という日が上手くいけば、僕は変われるような気がする。彼の言葉に耳を傾け、自分の気持ちを素直に伝えて、コミュニケーションを取ることで佐谷さんともっと親しくなりたい) 担当編集と作家。その関係も大切にしながら、個人として彼との距離を縮めたい。今までの自分の誤った態度をきちんと謝罪して、自分の気持ちを言葉にして彼に聞いてもらいたいと思うなら。 今日の僕には、仕事用の仮面は必要ではない。 黒の眼鏡に手を伸ばした時、漸く自分が素顔になれた気がした。 ありのままの自分を曝け出し、仮面を取った本当の自分として彼に正面から向き合おう。 恐らく今日が、僕にとってのスタートラインになる。 彼の忘れていったペンケースを鞄に入れると、緩んでいた靴紐を固く結び直して僕は玄関を開けて外に出た。 「……」 執筆作業をしている手がぴたりと止まってしまった。 パソコン画面には依頼を受けている短編小説の本文が綴られているが、昨日からまだたったの二、三ページしか話が進んでおらず完成まではまだまだ遠い。 速筆だと言われていた筆が、三週間前から徐々に速さが落ちてきていた。それでもなんとか締め切りには間に合って先週と先々週はきちんと原稿を提出できているが、このままの状態が長く続けばそれも次第に難しくなる。 (仕事にまで支障をきたすなんて、僕は小説家としてプロだというのに……) 集中しようとすればするほど頭の中に言葉や文字が降ってこなくなり、瞳を閉じて両手で頭を抱えた。 不調の原因は分かっていた。―――佐谷さんに言われたことだ。 三週間前、彼の部屋でその言葉を告げられて以来、常に頭の中がぐるぐると回っていて目の前のことが手につかなくなっていた。 こんなことは、はじめてだ。母が亡くなった時ですら、僕はそれが自分の役目だと思って書くことをやめなかった。ペンを握って原稿用紙に向かうと、まるで雨のように次から次に文章が降ってきて我を忘れたように執筆に集中していた。 そんな自分が、まさか『書けない』という状態になるなんて。こんなこと通常ではまずありえない。 “俺は、あなたのことが好きです” 都内に春一番が吹いた三週間前の日曜日、僕は佐谷さんから『好き』だと告白された。 それは作家としてだとか担当としてという仕事相手ということではなく、男女の間で使われるのと同じ恋愛としての『好き』だった。
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