第一部/担当編集×小説家⑦<2>

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第一部/担当編集×小説家⑦<2>

春を迎えた公園の桜は、まもなく満開を迎えようとしていた。 気象庁から毎年恒例の開花宣言が出されてから約一週間。最近では気温が一桁になる日もほぼなくなり、上着を一枚羽織っていれば夜でも冷えて寒さを感じることもなくなった。 春休みに入ったこともあり、普段この時間なら見かけない園児や小学生の姿で園内はとても賑わっていた。ボールを投げたり追いかけっこをしていたり、冬の間はあまり見かけなかったその光景もこれからはまた多く見ることになるのだろう。 広い芝生を見渡せるベンチは、ここに来ると必ず腰を下ろす決まった場所。途中立ち寄ったコンビニでミネラルウォーターを購入し、いつもの道を通って歩いてきたが、空いたベンチに落ち着いてからもうかれこれ二時間ほどが経っている。 降り注ぐ日の光が全身を包み込むように暖かい。時折吹く風は今日は穏やかで心地良く、また少し伸びた髪を一房撫でてはさらさらと気まぐれに揺らしていく。 何も考えず出てきてしまったので、眼鏡は仕事用のままだった。顔から外して正面を見ると、当然ながら視界はぼやけてよく見えない。 (裸眼になると、まるで違う世界を見ているようだ……) 輪郭がはっきりとしない公園の植物、並んだベンチ。そこに人がいることは分かっても、着ている服の柄や描かれた文字などは色以外は判別できない。 眼鏡を外すと、全てが曖昧で不確かなものへと変化する。それはまるで今の自分の心にも言えることで、正体を確かめようと眉間にシワを寄せて目を凝らすけれど、それが何か明確になる直前で頭を振ってやめてしまう。 僕は臆病者なのだ。そこにある筈なのに、それが何なのか知ってしまうことを恐れ、最後まで手を伸ばそうとしない。 手を伸ばすということは、目の前にある事柄を知り、自らの意思で認めることだ。認めてしまった時には、それまでにはなかった新しい関係を手にすることになり、僕はそれら自分に降りかかる様々な変化に怖れを抱いている。 想定したもの以外の見たことのない世界に踏み出した時に自分にどんな変化が現れるのか、それを見られた時の相手の反応が怖くて、目を背けて逃げているのだ。 「……相楽先生?」 答えの出ないもやもやした考えに埋もれていると、背後から見知った声に呼びかけられた。 眼鏡を外したまま振り向いたので、ぼやける視界で目の前にいるのが誰なのか目を細めて確かめる。
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