草海 空海

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 ガロン、ガロンと金属音に混じって、ベェベェとやかましい獣の声が聞こえる。近くの家の者が、羊たちを放牧に連れにいくのだろう。窓枠にはめられた木戸の隙間から、明るい光が室内に落ちている。  寝ている間に、少しばかり汗をかいていたらしい。肌着がまとわりつくのが、不快だった。薄暗い部屋の中で、ミンニは身体を起こした。空気は生ぬるく、故郷のような爽やかさはない。  タンムーヴァ国の西方に広がる草原地帯には、初夏が訪れていた。  身支度を整えて、中庭を横切り母屋へ足を運ぶ。竈には火が入り、女たちが食事の支度を始めていた。 「おはようございます」  小さく言えば、それぞれが挨拶を返す。ミンニは、小さな台に腰を下ろして団茶を砕く母の脇を抜け、乳用の桶を手に取る。中庭で餌を食む、春先に子供を産んだばかりの山羊の乳絞りに取りかかる。毎朝のそれは、この家に居候するミンニに任された仕事の一つだった。  ミンニと母親がこの一家の元に身を寄せたのは、春の盛り。  北方のイェッツェンの民である彼女は、長らく気の病を患っている。集落に医師はおらず、適切な治療を受けないまま成人した娘に、両親はいたく思い煩っていた。  そこへさした光明が、医師のマグメアの訪れだった。  元々はイェッツェンに嫁いだ従妹の為にやってきた彼女だったが、従妹たっての願いでミンニの診断を行った。 「転地療法がいいと思いますわ。今、ミンニさんに必要なのは鬱陶しいくらいの陽の光と、あなたを知る人のいない環境です」  普段なら、事情を知りもしない人間にこんな言葉を突きつけられて黙っていない。しかし、この時ばかりはマグメアの柔らかな笑みに、知らず頷いてしまったのだ。両親ともに同行を申し出たが、なるべく環境を変えるのが重要なのだと言われ、母親のみが付き添うこととなる。  マグメアの生家についた日から数日は、ミンニも母も寝込んでしまった。これまでイェッツェンの地から遠く離れたことがない女たちは、数日がかりの山脈越えに心身すり減らしてしまったのだ。やがて体調を取り戻した彼女たちは、この異境で日々の営みを繰り返すようになる。
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