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「あらあなた、おかえりなさい」
リビングのドアを開くと、彩子(あやこ)は驚いたようにキッチンから振り返った。
パタパタとスリッパの音を響かせながら、料理の手を止めこちらへ歩み寄ってくる。
「早かったのね。帰ってきたの、全然気づかなかったわ。ごめんなさい」
「予定の案件が急にキャンセルになったんだ。俺、いつも深夜に帰ってくるだろ? 鍵開けるのも歩くのも、音立てないのが癖になっててさ。気づかなくて当然だよ」
そう言って、彩子の頭を撫でる。彼女の髪は入浴後なのか、しっとりと濡れていた。
スーツのジャケットを脱いで乱暴に放り投げ、どっかりとソファへと腰掛ける。
約一時間、電車で散々座り込んで舟を漕いでいたにも関わらず、どうして久々に座ることを許されたような開放感を感じるのだろう。
「もう、だらしないんだから」
呆れたように彩子はため息をつき、ジャケットを拾い上げてハンガーへと丁寧にかける。
いつもだったら、彩香(さやか)が真似するから絶対にやめろと目くじらを立てるのに。
彩子の表情はいつになく柔らかく、空気も穏やかに感じる。
やっと、吹っ切れることが出来たのだろうか。
「そういえば、彩香はもう寝ちゃった?」
「あー、うん。もう寝ちゃった」
「そっか。今日こそは起きてる彩香に会えると思ったんだけどなぁ」
三歳になる娘の彩香とは、ここ一か月ほどすれ違いの生活を送っている。以前は出勤前に会うことも出来たが、幼稚園に通うようになってからというもの、俺が目覚める頃には彩香の姿は既にない。おかげで目に焼き付いているのは寝顔ばかりだ。
「いけない。火、かけっぱなし」
グツグツと鍋の煮える音が聞こえ、慌てて彩子はキッチンへと戻っていった。
そういえば、こんな時間に何を作っているのだろう。彩子も彩香も食事なんてとっくに終えてるはずなのに。
俺は重い腰を上げ、彩子を追ってキッチンへと向かった。
彩子がコンロの火を止め鍋の蓋を開けると、濃厚なデミグラスソースのにおいが充満した。
「うわ、うまそー。ビーフシチュー?」
「ブラウンシチューよ。硬い肉を美味しく食べるには、やっぱり煮込むのが一番かと思って。食べる?」
「うん。実は夕飯食べれてないんだ」
「じゃ、今準備するから着替えてきてよ」
わかったと返事をして、俺はネクタイを緩めた。
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