序章

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今朝から降り始めた雨は、正午を過ぎてから更に勢いをまし、日付が変わるまで、もう幾ばくもなくなった今になっても降り止むことはなかった。 仁科舞は、冷蔵庫から梅酒サワーを取り出すと、引いたカーテンの隙間から、外を覗きこんだ。 丁度、部屋の正面にある小さな工場は今日は休養日らしく、数百メートル先のコンビニの看板の灯りがいつもより明るく見える。 目が眩むようなネオンなんて無い。住宅地と田園の間を時折車が通りすぎていく。 特別な要素などない、どこにだってありふれた景色を見ながら、舞は梅酒サワーを飲み込んだ。広がる炭酸がぴりりと舌を痺れさせる。 誰もいない部屋の中に閉じ込めるように、屋根を打つ雨音だけが響く。 雨は好きだ。アスファルトの湿った臭いも、屋根から滴り落ちる大粒の雫も、なんの特徴のないこの景色に変化を与えてくれる。けれど、雨の音は嫌い。叩きつける雨音は、ぽっかりと空いた心の隙をつき、振り切ったつもりでも、自分を立ち止まっていることに気づかせる。立ち止まってしまえば、自分の選んだ選択が揺らいでしまうような気がした。 「会いたい。」 口から零れた言葉は、溢れ出る感傷を振りきるにはどこまでも遠い言葉で、舞は苦笑した。 どうせなら、振りきれないならとことん彼を思ってしまおうか。 記憶の中の彼は、月日が過ぎるにつれて、ぼんやりと輪郭を失いながらも綺麗なままで残っている。 彼が住んでいる町にも雨が降っているのだろうか。 一人で居るのだろうか、それとも誰か隣に居るのだろうか。 右手に握る缶の中をかき混ぜるように、缶の底で丸を描く。外で降る雨よりも、ずっと冷たい雫が手の甲の上を滑り落ちて筋を描いた。 彼のために泣くことさえもできなくなった、私らしい涙だと舞は思った。 未練と言うには柔らかく、思い出と言い切るにはまだ鮮やかすぎる彼との時間は彼を失った今でも、私をこの町に縛り付けるには十分だった。 私は今もここから離れられないのだと、言ったらどんな顔をするのだろう。 ガラスに反射して映った舞の顔は歪みながらも、どこか幸福そうに口元は弧を描いていた。
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