碧へ──敗戦前

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碧へ──敗戦前

 ここは生ぬるい風に戦ぐ。  あのときも、眼の前の光景が微かに揺れた。凍りついたように動きを止めていた、代わり映えのしない膠着(こうちゃく)した場面が少しだけ変化を見せ、すぐにだんだん鎮まっていった。鼻先にある右手が上腕全体、小刻みに震えている。武者震いか、そろり微風がそばを通り抜けたとたん、幽霊にでも触れられたかのように悪寒がした。  (からだ)中に地鳴りを感じる。  薄っぺらい軍服ごと皮膚にべったり張りついたままの汗と湿気と、どこかしら絶えず怪我をしている傷口から滲み出る血と膿みとそれから、赤い泥土と砂粒とちぎれた草花や落ち葉の破片にまみれながら、密林を一寸ずつ進む。(つた)や雑木が無数に生い茂る、熱帯地方特有の鬱蒼(うっそう)とした植物群が、その旺盛でしぶとい生命力の強さと自由奔放さを誇るがごとく、あたり一面を無秩序に支配している。  ここから海は見えない。  緑、緑、緑……。翠玉(すいぎょく)とはまるで質の違う、濃い緑と茶色で塗り潰された重厚な油絵。疲弊(ひへい)した、いつもの精神状態で眺めやる。視界を埋めるのは、不当に侵入した我々を窒息せしめようとでも企図しているような、緩やかに、じわじわと押し迫ってくる原色原生林の森だった。  息を殺した無意識の呼吸が、周囲の空気と同化する。唾を呑んだ。喉仏が一度ゆっくり上下する。意識すると外界に比して、口腔から咽頭の奥にかけて躰の内側が酷く渇いているのがわかった。  何もない、先の見えない、だだっ広い水平線。何ヵ月も前に、この島へ上陸するまでに輸送船の甲板から眼にした真っ青な海を、ふいに思い出す。太平洋の彼方、波しぶきが散る。いつ、どこから攻撃を受け、沈没の憂きめに遭うやもしれぬという不安と、船の振動と酔いとに苛まれつつも脳裡に浮かべるのは、故郷のことだった。この果てしない海は、郷里の瀬戸内の海に繋がっているのだろうか。あとにしばし残る潮の路は、いつかの帰路を指し示してくれるのだろうか。あの穏やかな、たくさんの島々に囲まれた美しい海へ。  そして、君のことを想った。
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