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あるマンションの玄関に、男の影があった。
会社務めのその男は、鞄を肩に引っかけ、よろよろと丁度自分の家を出たばかりである。男は荒々しくその扉を閉めて手摺に掴まり、よろつく足で慌ただしく階段を下り降りると、一路地下鉄の駅まで急いだ。
別段、彼は会社に遅れるようなことがあって急いでいるのではなく、この男は朝の人混みを避けるために、ラジオ体操のはつらつとした声が響く道をよろめきながら小走りで進んでいた。
というのも、昨晩この男は、上司や後輩と共に4軒の居酒屋を回り、すっかり酔い潰れて後輩に家へ送ってもらったのだが、当の本人はまだ酔いが覚めていなかったこともあって、その事を全く覚えていなかった。ただその後輩が誤って家の鍵を持ち帰ってしまったため、どこかに落としたのだと思い、家の合鍵を別居中の妻のもとに取りに行っていたのである。
男にとって、妻に会うことはあまり気の進むことではなかったが、戸締まりをしないにはどうにも落ち着けず、また、ここでひとつ妻とよりを戻すきっかけになればと考えていた。
が、男の淡い望みは妻の同棲相手と名乗る男が応答したことにより潰えた。
男は妻の家から鍵を貰って来ると、すぐさま家に引き返し、戸締まりをして前述の通り、駅へ向かっていた。
いつもと変わらない、もとい、いつもよりも晴れた朝焼けの空の下、男はまだ人通りの少ない歩道を歩いていたが、今朝の妻の同棲相手に出くわしたことが、どうも頭の隅から離れないでいた。
しかし、ふといつもの癖で時計を睨むと、普段より2、3分ほど遅れている事に気がついた。
この男は会社では生真面目なことで名が通っていた。また、時間を厳守する性分だったこともあって、その遅れがどうも気に入らず、男は歩く速度を倍に速めたのであった。
が、先ほども言ったように、酔いがまだ覚めておらず、尚且つ小走りで歩いていたものだから、自然と男の息はあがっていった。三十路も半ばのこの男、ろくに運動もせず、オフィスに朝から晩まで座り込み、コンピュータに向かってにらみ合いをしているものだから、尚更にそれは疲れるものであった。
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