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さてこの男、進路を変えたことが功を奏して難なく地下に降りて改札をくぐったが、駅のホームに降りると、ふとあることに気付き、歩みを止めた。
男は目の前に、先ほど恐ろしい剣幕で睨み付けてきたあの和服の男を見たのだ。
男は彼を見ると、一瞬にして顔の血の気がひいていったが、同時に近づきたくないという嫌悪する気持ちも湧いていた。男はその和服の男に気付かれないよう、ホームの柱に平静を装って隠れながら、いつもより遠いところに陣取って、電車が来るのを待った。
しかし、その日は珍しく人身事故が起きて地下鉄が遅れていたので、男は早めに着いたにもかかわらず、20分程いつもより待つ羽目になった。
地下水が線路脇に流れる音が響く。
今朝の同棲相手と言い、二日酔いと言い、またあの気に食わない和服の男と言い。男の心境は、ちょうど手足が動かない状態で蟻が手足を這っているように、苛立っていた。
20分待ったが、電車はまだ来なかった。男が電光掲示板を見ると、さらに10分ほど遅れると出ている。
大きな駅のホームは1番線から6番線まであって、その時、6番線の電車の発車するベルが鳴り響いた。男はそれを聞くと、さらに苛立ちを倍増させた。時機の悪い事に、そのベルを聞いた2歳くらいの子供が、男の反対のホームで突然泣き始めた。親は子供をあやすが、いっこうに泣き止む気配はない。男の苛立ちは、もはや苛立ちを通り越して憤りの域に達しつつあった。
その内、男は立っているのも馬鹿らしくなって、背後にあった5人掛けのベンチにどっと座り込んだのだ。
しかしその時、ふと横目にあの和服の男が映りこんだ。その頃には男は、先ほどのあの和服の男に対する恐怖心は微塵にも感じず、むしろこの蒸し暑いのによくもまあ、あんな暑苦しそうなものを着ていられるな、とか、格好をつけているつもりか、など、苛立ちに任せて心の中で和服の男を罵り始めた。
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