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それが意外にも心地良かったのか、男はしばらくその和服の男を罵り続ける事で、日頃の鬱憤を晴らしていた。だが、その内それにも飽きてきたようで、男の関心事は時間へと変わっていった。
男が電光掲示板を改めて見ると、また15分の遅延と出ている。男は、もはや地下鉄を待っていては会社に遅刻すると思い、代わりの通勤手段を考え始めていた。
善は急げと言うことで、男はすぐさま立ち上がり、上りのエスカレーターへと向かったが、気付けばその頃には辺りは人で溢れかえっていた。男は人混みを避けるために早めに家を出た訳だが、この状況ではいつもと何ら変わりはない。男には落胆と共に、また先ほどの苛立ちが一気に舞い戻ってきた。
しかし、その時だ。男がホームの端ぎりぎりの所を、エスカレーターに向かって奮闘していた、まさにその時だったのだ。男は突然、苦しそうなうめき声を耳にした。もちろん、それは男にだけ聞こえていた訳ではないので、その場にいたほぼ全ての人がその声のした方向を向いたのだった。
男には何が起こったか分からないと言う不安感と、その不安感に対する苛立ちがふつふつと込み上げた。男はその方向を向いて何が起こったか把握しようとした。
が、男の身長では到底見ることが出来ない。
男は苛立ちを好奇心で無理やり抑えつけて、人混みを掻き分け、やっとの事で状況を把握するに至ったが、男はその時異様なまでに何も感じなかった。むしろ珍しいものを見るように、嬉々とさえしていた。
人々が取り囲んで見つめていたのは、あの和服の男だったのだ。地面に倒れ込んだその男は、胸元を強く握りしめて、苦しそうに悶えている。
しかし、誰も何もしない。ただ立ち尽くしてその光景を見つめている。中には一目見ると、その場を立ち去る者すらちらほら見受けられた。
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