5人が本棚に入れています
本棚に追加
誰も何もしない。
ただ立ち尽くして、見ているだけ。
その場にいた誰もが、彼をどうにかにかしようと心の中に思っていたが、誰も動こうとはしない。あまつさえ、そこにいる大体の人が、誰かが彼を助けるだろうと考えていた。
誰かが。
自分でない誰かが、きっと駅員に伝えるだろう。
その場にいた全ての人と言って良いくらいの人々が、和服の男を取り囲み、傍観を決め込んだ。その中には、男も例外なく含まれていた。
男は和服の男が倒れ込んでいるのを、他の傍観者同様にただ見つめた。しかし、やがて飽きたように興味を失な
った。そして段々と少なくなっていく傍観者と同じように、何食わぬ顔で鞄を担ぎ直し、エスカレーターの手摺に手をかけたのであった。
その頃、男には先ほど湧き上がっていた苛立ちが嘘だったように晴れて、少しも見受けられなくなった。むしろ、和服の男が悶え苦しんでいるのを見て、心がすかっとしたくらいであった。
男がエスカレーターを上りきった時、ちょうど駅員が慌てふためいて階段を駆け降りていくのが目に入ったが、男は、それは少し変わった朝の記憶として心に留める事にした。
男はエスカレーターを降りると、階段から駅員が駆け降りて行くのを、少しばかり見つめて、改札に定期を通した。
その後、男は2度と和服の男を見ることは無かった。
注) 本作は多岐にわたる暴力全てを推奨するものではありません。
最初のコメントを投稿しよう!