涙日

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 蝉の声のする玄関で僕は靴を脱いでいた。  まだ脱ぎ終えないうちに背後からおじさんの微かな音が聞こえた。 「チャチャが見つかって・・・・・・今、部屋にいるんだが」 「えっ?」  外からの光で薄暗く映った、物憂げそうな彼と一瞬だけ目を合わせた。  それと同時にもう片方の靴を脱ぎ捨てる。 「文弥。そう慌てなくても、チャチャはもう逃げないよ」  一週間前に飼い猫のチャチャが脱走し、行方不明になっていたのだ。  そんなおじさんの言葉に構わず、僕は廊下を走った。 「文弥、待ちなさい!まだ話が・・・・・・」  けれども足は止まらず、廊下に響くおじさんの声を背中で聞いていた。  その背中にあるはずの、黒いランドセルの重たさも感じないほどに。  顔に流れる汗も、この湿った空気も、途切れる息の苦しささえも忘れて。  洗面所も台所も通り過ぎ、居間へ向かった。 「お母さん!チャチャが見つかったんだって?」  いつもいる白いソファーにチャチャの姿は見当たらなかった。  窓際に置いてある扇風機の風が僕の顔を掠め、視線を向けた前に背を向けた母が座っている。 「チャチャは?どこにいるの?」  僕の質問に答えるように、母はそっと横へ移動した。  扇風機の前にダンボール箱が置かれている。  この中に違いない、と僕は床を滑るように進んで四角い箱を覗いた。  そこには茶虎模様の彼女が丸まっている。 「チャチャ!」  いつものように僕は彼女に触れた。だが、すぐに異変に気づいた。  あの柔らかくて温かかった毛が、今は剥製のように固く、冷たいのだ。 「病気だったらしいの・・・・・・それで、チャチャは死ぬ場所を見つけに逃げたんじゃないかって・・・・・・秀夫おじさんが駐車場で・・・・・・発見した時にはもう・・・・・・」  よく見れば、母は泣いていた。  僕はもう一度ダンボールの中のチャチャを眺め、眠っている時と何も変わらない彼女をそっと持ち上げた。  人形のように無機質で、艶のなくなった毛に顔を埋めて僕は彼女に言った。 「チャチャ、おかえり」  それは僕が小学6年の時の、夏休みを迎える前の小さな出来事だった。
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