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表札に「尾上」の文字。
よく手入れされた庭に小さな三輪車。幸せを絵に描いたようなその佇まいは、あまりにも自分が生活していた場所とはかけ離れていた。
「俺も最近知ったんだけれど、お前の親父さん今は小さな工場勤めで、その工場の事務の女性と再婚したらしい。この前、里帰りした時に見かけて。一瞬、誰かわからなかったよ。あんな穏やかな人だったっけって」
どういうことだ?父が穏やかな?想像もつかない。
「見せれば安心するかなって。お前が前に進むためには過去と決別しなくちゃいけないだろ」
しばらく動けず、その場所に立ちすくんでいたら。女性が一人が出てきた。
「お留守番お願いしますね。すぐに戻ります」
家の中に向かって女性が声を掛けると、髪の色がグレーになり少し体の小さくなった父親が幼い子を抱いて玄関まで出てきた。
「気をつけて、早く帰ってこいよ」
そう微笑む姿は、見たこともないものだった。
「嘘だろ....…あれが、親父?」
「奏太、もう解放されろよ。おばさんだって独りで生きていけるようになったし、親父さんだって新しい人生を歩き初めているんだ。お前だけ過去に囚われていて、進めないなんて間違っている」
呼吸ができない、嘔吐感がこみ上げてくる。その場にしゃがみこんで動けなくなってしまった。
「大丈夫ですか?」
優しく声をかけてくれたのは、たった今その家から出てきた女性だった。父の新しい家族。
「すみません、こいつ貧血気味で。大丈夫です」
瑞樹が答えてくれたことにほっとする。過呼吸になりそうな呼吸をなんとか落ち着かせてゆっくりと立ち上がる。
「お水か何かもってきましょうか。私の家、すぐそこですから」
「いえ、大丈夫です」
心配している、優しそうなその女性にそう答えるのがやっとだった。
「本当に大丈夫です、今タクシー拾いますから。奏太、行こう。ご心配おかけしました」
瑞樹に支えられながら、その女性に頭を下げた。そうか、もう俺以外過去に生きている人間なんていなかったんだ。いつの間にか俺は置いてきぼりにされていたんだ。
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