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江戸時代には、幕府の定めた法度に従って貧乏な生活をしていたとも言われている。
古くなって、酢の味のする日本酒だけを飲んでいた天皇が、初めてまともな日本酒をのんで、余りの上手さに驚いたという話は、ま、話半分としても、決して豊かな暮らしだったとは思えない。
天皇家と公家百官を合わせて、江戸時代は石高が10万石だったと言われている。
だから、費用が足りなくて、宮中祭祀が中断したと書かれている事も幾つかある。
明治維新の立役者の岩倉具視は、公家なのに家禄 200石だったと言われている事から考えても、天皇家が裕福とは言えない状況で幕末を迎えたのは、間違いないと思う。
天皇家が、江戸時代には全く庶民に知られていなかったという話もあるが、将軍の代替わりの度に、将軍宣下の勅使が江戸に来たのだから、東海道か中山道かは別にして、街道沿いの庶民の目には触れていたはずで、それなりの存在感はあったと思う。
京都や大阪では、天朝さんと呼ばれていたとも聞くから、権威だけでなく、親しまれていたと思われる。
それは、やはり前記のように、天皇家が贅沢をしない家柄だったからだろう。
明治維新によって、天皇家は現在の皇居に移ったのだが、京都では長い時間の別宅住まいという人もいるし、現在でも、日本の首都は、法律上は京都だと言う人がいるほどだ。
維新の結果として生まれた『大日本帝国憲法』で、天皇家は改めて権力の座に着いたかのように見えるが、この憲法には重大な欠点があった。
首相の地位を、江戸時代の将軍のようにしたくないという思いが強く、内閣の力を必要以上に弱くしてあったのだ。
そして、天皇は「君臨すれども統治せず」という形を取ったので、結果として陸軍の暴走と海軍の便乗を招き、大東亜戦争に敗北してしまった。
天皇家の権威は、確かに「君臨すれども統治せず」で良いと思うのだが、そこからさらに一歩踏み込んで、内閣が選挙の公約に違反した時と、国民が内閣の交代を強く望んだ時等に、天皇が内閣交代の発議ができるという、民主主義の欠点を補う役割だけを、憲法に盛り込むべきだと考えた。
これはあくまでも発議であり、最終的な判断は国民が決める事にして置けば、統治せずに近い形だと思う。
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