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事務所の玄関の方から足音が近付いてきた。
咥えタバコに大股開きでソファーにそっくり返っていた若衆が、気だるげに振り返る。
そして、歩み寄ってきた人影が誰なのかに気づくと、「あ……」と、驚きと戸惑いがないまぜになった声を上げ、腰を浮かせた。
「秦さん……もう今晩は、お帰りかと」
「ああ、ちょっと野暮用で戻った」
わざわざ立ち上がって挨拶する必要はないと、目線で若衆を押しとどめながら、「お前が、今日は終いか?」と訊ねる。
はい、そうです、と生真面目に返事をする若衆に、「今晩は、もういいぞ、事務所は、俺が戸を立てとくから」と言って、秦久彦は、自室のドアに手を掛けた。
「いや、でも……」と言いかけたが、一瞬の間の後、若衆も、要は秦が「人払い」をしたがっているのだと察すると、すぐさま立ち上がる。
そして、「すんません、じゃ」と、頭を下げ、黒皮のトレンチコートをひっつかむと、玄関へと歩み去った。
事務所から、人の気配が完全に絶える。
秦が、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「ああ……どうも、兄貴。ええ、そうです、昨晩、夕飯がてらに」
ゆっくりとデスクチェアに腰かけて、秦は、ラップトップコンピュータを立ち上げる。
「いやいや、そんなことは、兄貴……」
軽く首を横に振りながらそう言って、
「坊とは、久しぶりに会って話したいと思ってたところでしたし」と続けた。
「……『なんて?』って、そうですね、『そのうち飽きるから心配するな』と、そんな感じでしたが、ええ」
え? メール? 瞬いて首を傾げて、秦はマウスに指を伸ばす。
「はい……届いてますが、ええ、じゃあ」
通話を切って、スマートフォンを机の上に置いた。
本文なしのメールに添付されていたのは、音声ファイルだった。
立ち上がり、壁際の棚から、ノイズキャンセリングのヘッドフォンを手に取ると、再び座り、プラグをイヤホンジャックに挿す。
ヘッドフォンを装着して、ファイルを開いた。
そして、数分間の再生が終わる。
「……なにが、『惚れてなんかない』んだか」
ひとり低く呟くと、溜息をつきながら、秦は、おもむろにヘッドフォンを外した。
「もう、すっかり『ズブズブ』じゃあないですか……坊」
(第3章 了)
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