第1章

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 雨が降っていた。  たぶん。  普段はそう思う。 「たぶん、そうだろう」と。  とかくこの世っていうのは、どうでもいいことが多すぎる。雨が降っていたかどうかなんて、どうでもいいことだ。  でも、澁澤と出会ったことは、どうでもよくはなかった。  覚えているのは、そのせいだ。  ――あのとき、雨が降っていたと。  *    目を閉じていればいいだろう?  その方が、もっと、いいものが見える。  もっとマシな景色が――  澁澤は、そう言った。  でも、僕は目を開けておく。  ぼんやり眺めやる僕の視線は、澁澤の深くえぐれた鎖骨の窪みを透明に突き抜けて、その先の壁の上のちいさな穴を見る。  絵を掛けていた釘の痕だ。  いつのまにか壁は日に焼けていたようで、額縁のあった部分だけが、うっすらと白いまま残っていた。  澁澤の腰の動きは激しかった。ベッドはひどく軋んでいたと思う。  喉元からこみ上げてくる喘ぎと悲鳴を、抑えたりこらえたりした記憶はないから、僕も相当に嬌声を上げていたはずだ。  けれど、強風とともに窓辺に吹き付ける雨音があまりに強くて、僕の耳に入ってきたのは、ざあざあと荒波のように押し寄せる水音だけだった。  スプリングの軋りも、自分の切ない悲鳴も、何ひとつ聞こえなかった。  僕と澁澤は、何度か、互いに互いを犯した。  そしてドロドロに汚れた身体のまま、僕は眠ってしまった。  澁澤の低い声を聴きながら……。  その時、澁澤が何かを唄っていたらしいことに、僕は、随分と後になってから気がついた。  
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