第1章

3/8
前へ
/935ページ
次へ
  *  目を覚ますと、ベッドの上に澁澤の姿はなかった。  ――黙って帰ったなら、別に、それはそれでいい。  そんな風に思いながらも、正直、僕は、すこし物寂しく感じた。  虚勢を張ることもない。  寂しい、うれしい、悲しい、腹立たしい。  感情など、そのまま見つめておくのがいい、どうせ、一瞬で、自分の中を通り抜けていくだけのもの。  そんなものに、いちいち、どうのこうのと、かかずらうまでもない。  ペタペタと裸足の足音が近づいてくる。  ベッドルームのドアが開いた。 「悪い、風呂借りた」  悪いと思うなら、借りなきゃいいのに。 「……タオルも」と付け足し、澁澤は、床に散らばった服を足でよけながら、窓辺の椅子に腰を下ろす。 「お前、すごいエロいのな」  ボソリと言って、澁澤は、肩に掛けたハンドタオルで髪を掻く。 「そっちこそ、随分と絶倫なことで」  僕はこう言い返すと、心の中で「歳のわりにはね」と付け足した。  澁澤が、床からジャケットを拾い上げて、ポケットから「キャメル」を取り出した。 「あ、ここではタバコ、やめてくれるかな」  僕がすぐさま、こう静止したにもかかわらず、澁澤は、オイルライターの蓋をパチンと開けて、タバコの先に火を回す。  ライターオイルの匂いと、焦げ臭い匂いが、あっという間に部屋に充満した。  僕はイライラと舌打ちする。  悠々と煙を吐き出し、澁澤が、ラクダみたいに長い睫毛で、ゆっくりとまばたいた。 「……タバコはダメでも、『こっち』ならOKだっていうのか?」  そう言って、澁澤が、薬包紙に包まれた粉末をシーツの上に、ポンと放る。  ――なあんだ。 「オッサン、僕のこと、知ってて寝たんだ?」
/935ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2742人が本棚に入れています
本棚に追加