第1章

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「まあ、知らなくはないな」  言葉を途切れさせて、澁澤は、また、キャメルのフィルターにくちびるを付けた。 「『八角(やすみ)(りょう)、二十三歳、都内国立大の大学院生で、薬理化学専攻。いずれはノーベル賞候補と名高い有機合成薬学の勝見孝道教授のゼミ生で、成績優秀』ぐらいのことはね……知ってはいるな、とりあえず」  報告書の一節でも覚えてきたかのように、澁澤はつらつらと述べ立てる。飄々ととぼけて、妙に喰えない表情を浮かべたままで。 「あとは、そうだな、ほかには……」  澁澤が、ふぅと、キャメルの煙を吐き出した。  僕は流れてくる煙を、枕であおいでせき止める。そして、澁澤の先まわりをするように、こう続けてやった。 「ほかは? 『由緒正しき広域暴力団笠松組の本部隊長で、関東劉山(りゅうざん)会会長八角洋大(ようだい)の息子』ってこととか? ちなみに『非嫡出子で、母親は不詳』とか」 「まあ、そんな感じかな……」  軽く頷いて、澁澤は長くなったタバコの灰を落とせそうな場所を探し、視線をさまよわせた。だが、間に合わず、灰はポロリと床に落ちる。  澁澤は足の親指で、その灰を散らばした。そして、こう続ける。 「それに、おふくろさんの身元は、別に不詳でもなんでもないだろう? ウチじゃ掴んでるぜ?」 「ああ、『劉山会の会長さん』はね、『情婦がオランダの売春婦だった』ってことは、隠したいらしいよ。一応、公然の秘密ってことになってるんだ」  言って、僕はちいさくせせら笑った。 「『オランダ』? たしか……出身はドイツのハノーファーじゃなかったっけか」  澁澤が、二本目のキャメルをくわえて、首をひねる。 「ああ、その情報ね。あの女の『自称』だから、あてにはならない」  だいたいさ、本人は、とうの昔に死んでるから。本当のところは、誰にも解らないままってこと。 「ともかく、『劉山会会長の息子さん』ともあろうモンが、随分、気を抜いてるんじゃないのか? こんな危ないブツ、洗面所のキャビネットに、無防備に置いとくなんぞ」 凄んで見せるわけでもなく、ごく淡々と言い、澁澤は、シーツの上の薬包を顎でしゃくった。
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