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一ヶ月後。元妻とその父親に、ホテルのカフェレストランで俺は会っていた。
「うちの娘が、何をトチ狂ったか、いきなり馬鹿なことをしたことはお詫びする。娘も、ちょっとした思いつきでそんなものを書いてしまったそうなのだ。どうか許してやってもらえないだろうか」
「顔を上げてください、おとうさん。・・・それはもう無理です」
俺はとても悲しげな顔を作ってみせた。
「あの日、弟が急な心臓発作で亡くなったのです。連絡を受けた私はすぐに両親に連絡を取り、両親も慌ててうちにやってきました。そして見たのが、・・・テーブルに置かれた離婚届だったのです。それまでそんな話し合いも何も、私達にはありませんでした。そして一方的に離婚届を置かれていたら、それこそ男と逃げたかと思うしかありません。慰謝料を請求しなかっただけでも良しとしてもらいたいところです」
「えっ? 弟って、耀司君がかねっ?」
「はい、そうです」
妻だった女が弾かれたようにこちらを見ていた。きっと連絡をとれない耀司に捨てられたと思っていたのだろう。まさか亡くなっているとは思わなかったに違いない。
「若く健康な人でも、いきなりそういうことがあるとか」
「あ、あのっ、亡くなったのはっ、亡くなったのは何時頃なのっ?」
その勢いに、俺はもうここにいるのは妻だった女ではなく、ただの他人だと実感した。
「昼過ぎだったらしい」
嘘だ。本当は朝、亡くなっている。
けれども元妻はそれを聞いて、安堵したような吐息を漏らした。
それを確認して俺は立ち上がった。
「では、失礼します。さすがに離婚届をテーブルに置いて出て行ったと、うちの家族にまで知られていてそれで再構築はあり得ませんから」
がくっと、舅だった人が肩を落とす。けれども、その隣に座る元妻の瞳には涙が光っていた。それは俺との再構築ができなかった悔し涙ではないのだろう。
だけど。
君はその思い出だけにすがりながら生きていけばいい。
耀司は、君との愛に生きようとしたのだと。
(そんなことは全くなかったが)
けれどもこれは俺が墓場まで持っていく秘密だ。
亡くなった弟の名前を借りて、君にこの幻想を贈ろう。
妻だった君への、手切れ金として。
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