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「また海を見ちょるんか。
本当に海が好きじゃのぅ、お前は」
夕焼けもすでに色を落とし、潮の香りと波音だけが支配する浜辺で、
膝を抱えて座り込んでいた健一郎に、ふいに上から声が降って来た。
「父ちゃん……」
見上げた健一郎の目に、見慣れた父親の輪郭が映る。
「今日は大潮じゃけ、お前の弟か妹も、もうじき生まれるじゃろう。
潮もじき堤防の奥まで入って来るけぇ、いつまでも浜におったら取り残されるで」
父親は健一郎の隣にしゃがみ込み、その小さな頭を陽に焼けた手で乱暴に掴んで揺すりながら、微笑んだ。
「潮が赤ちゃんに関係あるん?」
「赤ん坊は潮の満ちる日に生まれるもんじゃ。不思議なもんでのぅ、母親の身体はそうなっちょるみたいじゃ。
赤ん坊も、母ちゃんの腹じゃぁ水ん中でたぷたぷしちょるけぇ、海と呼び合うんかの」
「ふうん?」
健一郎は、要領を得ない風情で首を傾げる。
父親は、健一郎の頭から手を離し、暮れ落ちる海の彼方に目を移した。
「魚も人間も、おんなじ海の一部、っちゅうことなんじゃろうの。
わしゃぁ学がねぇけぇ、難しいことは解らんけどのぅ」
「……でも母ちゃん、苦しそうじゃった」
健一郎は俯いた。
「……そうじゃのぅ。男はこういう時はほんとに役立たずじゃけ」
「海は好きじゃけど、時々、怖い。
海が呼んぢょるんなら、海はちゃんと母ちゃん助けてくれるんか?」
すがるように投げ掛けられた健一郎の問いに、父親は少しの間をおいて、答えた。
「そりゃぁわからん。
海も生きちょる。機嫌のええ時も悪い時もある。
いつも赦して助けてくれるばっかりじゃねぇのは、わしら漁師が一番よう知っちょるからの」
涙目になって父親を見上げた健一郎の頭を、大きな父親の手がポンポン、と優しく叩いた。
「じゃけど、心配せんでええ。
海は、暴れたあとは必ず凪ぐんじゃ。
凪いで気を抜いたら、また荒れる。
いつもいつも、わしらがやることを見ちょる。
わしらの本気を待っちょる。
わしらがいつも本気で海と付き合うて行きゃぁ、絶対に味方になってくれるんじゃ」
「うん。わしも漁師になる。海と仲間になるけぇ」
「そうか……うん、漁師になるか。
じきにお前も兄ちゃんじゃけぇの」
「うん」
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