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「……さあ、帰ろうで。
母ちゃんの本気を、見届けんとのぅ」
父親に促されて立ち上がり、波打ち際に背を向けて、健一郎は歩き出した。
目に入る、ポツポツと灯り始めた、海沿いの家々の明かりが、
海をなおさら深い闇に沈める。
寄せては返す波の音だけが、浜砂を踏みしめる草履の音を浚うように、
背中から健一郎を追って来る。
寄せる音。
返す音。
寄せる。
返す。
寄せる。
返す。
『海も生きちょる』
父親の声が浮かんだ。
寄せる。
返す。
寄せる。
返す。
海が、息をしている。
健一郎は、そう思った。
母の苦痛を宥めるように、
新たな命を導くように、
海がゆっくりと、深く、呼吸している。
波を振り返ろうとして思い留まり、
健一郎は背中で海の息遣いを探った。
寄せる。
返す。
寄せる。
返す。
あれは、海の生きる音。
怖さも優しさも両方を併せ持って、自分達を見つめる、海の視線。
それに恥じない、男になる。
海を、逆に守れる男になる。
健一郎は、きっ、と顔を上げて、
自分の呼吸を、背中の海に重ねた。
寄せる。
返す。
寄せる。
返す。
凪いだ宵の波は、緩やかな呼吸を繰り返す。
それは深く、長く。
健一郎の小さな肺では目眩がするほどの、
厳しく、それでいて心地好く、未来を引き寄せる、律動。
寄せる。
返す。
寄せる。
返す。
寄せる。
返す。
寄せる。
返す。
Fin.
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