第三話

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第三話

カーラジオが音楽を中断してニュース流した。 「俳優の石」とだけで誰もが理解し「裕ちゃんが死んだ」と車内の誰もが叫んだ。 我らが英雄の石原裕次郎が52歳で死んだのだ。 バスの中の誰もが裕次郎映画を全て観ていた。 そう思う程に裕ちゃんは映画人のスーパスターであった。 フアンは裕ちゃんと呼び二谷さんはちゃん裕と呼んだ。 石原プロモーションの社員は社長と呼んだ。 成城での通夜に参列した時に社員時代が甦って来た。 香典に3万円包んだ。 石原プロモーションでの初任給が3万円であったのだ。 思い返すと小学高学年の時から日活映画を夢中で観ていた。 二見に映画館はなかったのでバスに乗って伊勢市まで出かけた。 毎週日曜日に新作が封切られた。 ダイアモンドラインの映画を観に毎週日曜日に出かけた。 お袋に嘘をついては出かけた。 参考書を買うとか言い訳しては出かけた。 お袋は嘘を見破っていたに違いない。 それでもお袋は何も言わずに小遣いを渡してくれた。 あれはどうしてだろうかと今でも思う。 お袋は、父の顔を知らない。 3歳の時に亡くなったからだ。 母と祖母に育てられた。 そんな境遇が嘘言うなと言えなくし甘く子供に接していたに違いない。 あるいは祖祖父が始めた雑貨屋の切り盛りで忙しくて甘くなっていたのだろう。 東京の大学に進学した。 石原プロモーションは、「太平洋ひとりぽっち」と「城取り」を製作していたがこれといった独 自の成果を出せていなかった。 しかし「黒部の太陽」で石原裕次郎は三船敏郎と共演し強靭な五社協定を突破した。 続く「栄光への5000キロ」で存在意義を確立した。 その二本の映画を観て感銘を受けた。 映画そのものよりも製作する石原裕次郎の姿勢に憧れた。 単なる映画俳優ではなく映画人であった。 尊敬に値する映画人であった。 大学3年生の時の就職活動先は総合商社だった。 エコノミックアニマルと世界中から呼ばれていた商社マンとなって世界を股にかけてに駆け巡りたいと願っていた。 しかし願いを変更した。 石原プロモーションに入りたいと願った。
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