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妻からの「おかえりなさい」を聞く度に、得体の知れないアメーバーのようなものが肩からずっしりとのし掛かってくる。次いで重みに耐えられず倒れる俺に、アメーバーがそのまま侵食してくる。
そんなイメージが湧くようになって、早五年。
あんなに可愛くて、帰ったら妻の笑顔があることが信じられないくらい幸福だったのに。
「ただいま」
全部を一瞬で飲み込んで、ネクタイを緩めるとポケットに小さな振動。さっきまで一緒にいた彼女だろう。
…俺たちに子供がいれば違ったんだろうか。
そんなこと、決して口に出せないけれど。
若い頃の妻に驚くほどよく似ている彼女に、もう来ることのない未来を夢見てしまったと言えば少しは聞こえが良いだろうか。
年を重ねる程に、自分の遺伝子を継いだ子供が欲しいと願って。叶わぬと知り、諦めたそのときから余計に焦がれて。大した価値のない俺の遺伝子だっていうのに、妻じゃない女に手を出してまで欲しかった。確かな証し。俺が生きていた証し。…違う。
大した価値がないからこそ、俺は確かな証しが欲しかった。
パパになったよ!
線の出た検査薬の写メと共に、そんな一文が画面に表示されている。
彼女のお腹に確かな証し。脳の奥が歓喜で痺れる。
「あー、ちょっとコンビニ行ってくるわ。なんか買ってくるもんある?」
「助かった~!明日のパン買ってきて~」
いってらっしゃいと見送られ、玄関を出る。エレベーターのボタンを押す。カチカチ。遅い。階段を駆ける。駆ける。夜の道を、彼女の家まで。
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