1090人が本棚に入れています
本棚に追加
「いくぜオイ!」
先に殴りかかったのは魔王だ。助走をつけ、思い切り振りかぶった拳を弟の頬に叩き込む。
弟はそれを避ける素振りも見せず、黙って殴られたが、倒れることはなかった。どころか、不敵に口角を上げてさえいる。
「効かねぇなぁ……次はこっちの番だッ!」
そしてお返しにと、今度は弟が魔王を殴る。
だが魔王は、よろつきはしたものの、やはり倒れない。
「あはははッ! 笑わせんなよ! そんなクソ雑魚パンチで私を差し置いて王になれるとでも!?」
「なら倒れるまで何度でも殴ってやらァ! 気ィ失っても知らねぇぞ!」
そこから先は、ノーガードの殴り合いだった。
互いに一発ずつ、渾身の一撃を相手に見舞う。魔王が顔を殴れば弟も顔を殴り、腹を殴られれば腹を殴り返す。ずっとその繰り返し。
それは殆どの観衆にとって、ひどく低レベルな争いに見えるだろう。
魔法が広く普及するニヴルヘイムにおいて、一対一の決闘で一切の魔法を使用せず、肝心の殴り合いも素人以下。戦闘能力で人間より遥か上をいく魔族たちにとって、この勝負は児戯のようなもの。退屈するのも自明の理だ。
それでも、見る者によっては……即ち、魔王と弟の関係者たちには、壮絶な死闘に見えている。彼らが何を思い、何を背負っているのかを理解した者にだけ、違った景色が見えるのだ。
「さっさと……倒れろッ!」
「お前がっ……倒れろ!」
「負けを……認めやがれ!」
「こっちの……台詞だァ!」
唇を切ったのか、二人とも口から血を吐いている。目も焦点が合わなくなってきていた。腕に力が込められなくなり、徐々にパンチの威力も低下していく。
最早二人を突き動かすのは、気力、死力と言った類のものだけだ。今にも仰向けになって楽になりたいのを我慢して、相手より一発でも多く耐え、一発でも多く当てることだけを考えている。
「おい……いい加減諦めろや……てめぇ、なんでそこまで王の座に固執すんだ……? てめーにゃ王なんか務まらねぇよ」
ここで呼吸を整えるためなのか、はたまた精神的に揺さぶりをかけるつもりなのか、魔王が弟へと話しかける。
きっとその意図は本人さえもよくわかっていないだろう。殴られすぎて朦朧としかけているから。
「お前に王は任せられねー……何より、王になることは昔から俺の夢だった。お前にも語ったことがあるだろ」
そしてそれは、答える弟の方も同じ。
お互いにギリギリの状態。だからこそ、普段は隠している本音での会話ができる。
「お前こそ……王なんて柄じゃねーだろ。そこまでして大魔王になりてぇ理由はなんだ……?」
ついに弟は、核心に迫ろうとしていた。
未だ一度も聞いたことがない、姉の本心。
引きこもって以来閉ざしっぱなしの、その心に。
最初のコメントを投稿しよう!