血まみれのナッツ (Bloody nuts)

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 廊下に出て階段近くのトイレに私も向かう。  ドアを開けたまま、嘔吐く彼女の後ろ姿に声をかける。 「アナ、毒は一度体内に入ると抜けるのにしばらくかかる……念のため、口の中が苦い間は唾も吐いた方がいい」  それに頭を上下に揺らしながら彼女は嘔吐し続けていた。  彼女は私が話すことを決して疑いはしなかった。  子供を事故でなくし、夫に暴力を振るわれる日々を過ごしたアナは、極度のストレスから物を食べることさえままならなくなった。  そうして正否の判断もつかないほどに衰弱し、痩身を通り越して骨と皮だけになった。  そんな人間をコントロールするのは簡単なのだ。  私の更なる毒で彼女は何かを口に入れることさえ拒むようになり、ついには部屋に篭り切りとなった。 「アナ、水も飲まないのか?」  1週間ほどして部屋の前でそう声をかけたが返事はなかった。  中に入って確認をすると、壁に凭れ掛かるように座る彼女がいた。  窪んだ目はこちらを一心に見つめたままだ。 「アナ……アナスタシア……」  こんな状況でも、私の全身の血は騒ぎ出した。  彼女の持つ凶器が私の脳を刺激する。  食物を絶ち、水分も摂らずに唾液さえも皿へ吐き捨てる、その奇異さ。  非現実的な光景は私に興奮を与える。  それがザッハー=マゾッホ的かマルキ・ド・サド的か。  それは私に関して言えば、自分を殺めようとしても他人を殺そうとしても、どちらにしても私はきっと喜ぶに違いない。  だからといって私が異常とは決して言い切れないのもまた事実。  社会が評価を与えなければ守られないマナーしか、人は守らない。  誰の目にも届かない場所は無法地帯になる。  現代人は社会規制によって、温和そうに見える人間に仕立て上げられているだけであって、その規制が解かれれば簡単に人を、自分を、殺める生き物だ。  社会という制約に縛られずに生きる、本来の人間という性質を持った個体にとって、優しい社会(※gentle society)は決して優しくはないのだ。
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