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「明日は鉄の雨が降るみたいだから気を付けて。気を付けて」
玄関で姉に手渡されたのは、重たい鋼の傘だった。るう、るう、と甘ったるい響きで、姉がわたしの名前を呼ぶ。
「行ってらっしゃい、るう。ちゃんと帰ってこなきゃ、やだよ。やだよ」
「わかってるよ。ちゃんと三日後に帰ってくるから」
明日はどんな雨が降るんだろう。
*
素敵な傘ね、と聞き覚えのない声で、後ろから言われる。優雅な黒いレースの傘を持った、黒髪の女性。この地で布製のモノを持てる人間というのは限られていて、それも薄い生地のものは高価である。女性はわたしの化学繊維の硬い手触りの服とは違う、ふわふわ揺れるワンピースをつまんで、優雅にお辞儀をする。
「ごきげんよう」
「依頼人?」
「ええそうよ」
かつかつ、と女性のピンヒールが鋼鉄の地面を叩く。ぎらぎらと底光りする鉄製の建物の間で、異質な柔らかさで、彼女は笑った。余裕のある人なのだ。
「誰を殺してほしいの?」
一方わたしは余裕なんてないのだ。柔らかいものなど、姉の肌くらいしか知らない。硬い化学繊維の服。味のしない栄養ブロック。鉄板を重ねたベッド。姉の細くてあたたかい腕。そんなものに囲まれて、生きてきたので。
「旦那をね、殺してほしくて」
「あなたの、旦那さん?」
「そう」
だんなさん。口の中でその響きを転がした。この人は奥さんなのか、と思う。鋼鉄の傘を握りしめて。明日は鉄の雨が降るのだ。血なまぐさい言葉を、赤い唇で、女性は淡々とこぼす。
「どんな殺し方でもいいんだけど。どうせなら通り魔でもいいわ」
「誰かが殺したの、バレてもいいの」
「あら」
意外そうに女性は目を見開く。
「じゃないとわたしが、同情してもらえないのよ」
「そう……」
ため息一つ。鋼鉄のこの街で、たくさん零れているため息の中に、わたしのため息もカウント。ちら、と女性を見たら、柔らかい笑顔は変わっていなかった。不意に、姉が買ってきた、腐りかけのりんごを思い出した。ぶよぶよとした、りんご。愚かな姉にお金を持たせると、すぐにカモにされて帰ってくる。
るう、るう、りんごだって、りんごだって。美味しいんだって、ねぇ、食べよう、食べよう。
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