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さて、トナカイ先生の葬儀が、そろそろ喪主の挨拶に移ろうとしていた。喪主は先生の長男で赤い鼻ではなかったが、意思の強そうな太い眉が良く似ていた。彼は仰々しく、胸を張り周囲に礼をして破顔一笑、挨拶を始めようとした。もしかすると自慢の喉でも披露しようと思っていたのかもしれない。学生時代に先生が、息子は歌手になるかもしらん、と嬉しそうに語っていたからだ。
しかし先生の息子の歌声の程を、僕が知る機会は失われた。(別に知りたかったわけでもないが‥)
式場の両開きの扉が、ばんっと開いたかと思うと喪服の女が、式場の陽気な空気に爪をたてるように姿を現した。
彼女を見た誰もが、その姿に呆気にとられた。なぜなら彼女があまりにも、哀し気な顏をしていたからだ。場にそぐわない人物の出現に、喪主は言葉を失い口をパクパクさせていた。
艶やかな黒髪は腰の辺りまであり、化粧っ気はないが、鼻すじの通った顔立ちやその凛とした佇まいは一枚の絵のようだった。
唖然とした人々の間を、真っ直ぐ前を見据えた彼女が行く、その先でトナカイ先生の笑顔が待ち受けている。彼女は静かに歩みを止めて、周囲と親族に一礼した。それから送れて現れ場を乱した事を詫び、焼香をしたい旨を告げた。
喪主の息子が相変わらず、固まっているのを見かねた先生の奥様が小さく会釈を返してぎこちない笑みと礼をいった。彼女はもう一度、皆に一礼してゆっくりと厳かに歩んで焼香をした。
僕は気がつくと席を立っていた。
無性に彼女が気にかかり、人目も気にせず(とはいえ、皆んなの視線は彼女に釘付けだった)、ご遺族の方々の並ぶ端に控え目に立った。
先生の遺影を見上げた彼女の肩がふいに震えた。ちょうど彼女の横顔を斜めから見ていた僕の心臓は、止まりそうになった。
あり得ない光景‥
彼女の頬を伝って透明な、
水滴が流れ落ちた。
涙だ、誰かが小さくつぶやいた。
式場に流れていた故人を送るタンゴの歯切れのよいリズムが、
途端に歯車が狂ったように
彼女の嗚咽と奇妙に混ざり合い、
式場を包み漂い流れていた。
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