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記憶にはいつも匂いがある。それと、音楽。 付帯(ふたい)する何かが、記憶を呼び起こす。 いくつもの出逢いを経て、いくらかの恋をして。心に残るものを思い出すとき、だから、匂いや音楽がいつも脳裏を過(よぎ)る。ムスクの香りが好きになったのは誰の影響だっただろう。ふと、そんなことを考えていた。 夏も中盤に入った。蝉の大合唱を聞くのは今も昔も変わらないけれど、蛙の合唱を久しく聞いていない。高校までを長野の田舎で過ごした。あの頃は、まだ男の人の温もりなど少しも知らなかった。その、本当の幸せも。あのまま、知らなくても良かったのかもしれない。私には今は不要なものだから。 「海咲(みさき)」 ふと名前を呼ばれて、まだベッドから出てこない彼を見る。1LDKのこの部屋に一つしかないベッドは、時折、彼と私のものになる。本当は私だけのものなのに。 「なに?」 まだ慣れない人の気配に、私は一瞬戸惑う。 「今日も、起きるの早いのな」 「仕事が溜まってるから、紳くんが寝ている間に少しでも進めておこうと思ったのよ」 一つ、嘘を織り交ぜた。 仕事が溜まっているのは確かだけれど、そこまで切羽詰まった状況ではない。彼がこの部屋を出てから手を付けても、十分に間に合う。それでも、私には彼にそう言わなければならない理由があった。 「本当、仕事に関しては手を抜かないのな」 「それは、紳くんも同じでしょ」 お互い仕事人間なのだ。趣味も充実した、何一つ、不自由のない者同士。だからこそ、私たちはこういう関係になった。 彼は少しだけまだ眠そうに布団の中にいたが、すぐに起きて服を着た。部屋の隅に置いてあった茶色の革のバッグを肩に掛けて、こちらを振り向く。 「じゃ、俺行くわ。連れとモーニング行くって約束してるから」 颯爽と、今日も帰ってくるんじゃないかと思うほどのラフさでそう言って、玄関に向かった。次にいつ、ここに来るのかも分からないのに。 「じゃあね」 私も、彼に倣(なら)ってそれだけを言う。軽く手を上げて、彼はそのまま部屋をあとにした。 いつもこの瞬間が来ることが怖くて、だからこそ、私は彼に決して甘えたりしない。それはきっと、愚かなことだ。私は、彼の隣りで寄り添うだけの余力を持っていないのだから。 蝉の声だけがやたらと耳に付く。昨夜飲んだお酒の香りが、ほのかに部屋に残っていた。
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