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彼の腕の中は、ひどく穏やかに眠れる。不眠症に近い私が、こうやってちゃんと眠れるのは、彼の腕の中だけだ。 彼はたまに鼻歌を歌う。澄んでいて、綺麗な声で。 「あ、“ほんとはね”だ」 いつだったか、彼が口ずさんでいた曲に、私がそう漏らした。 「知ってんの?かなりマイナーな曲なのに」 知っている。もう何年も前に、私に恋をしてくれていた人を思い出すとき、その曲が頭を流れる。音も歌詞も、その人をよく表していた。紳には決して似合わない、内気で、でも一生懸命に恋をする男の人の曲。 「この歌詞の男の人、学生みたいに純粋で可愛いよね」 好きとはまた違う、第三者であるから微笑ましい感覚。 「いや、うじうじしてて腹立つだろ」 紳はそう言って笑っていた。たまにこういう瞬間がやってくる。遠い記憶を呼び覚ます、彼の何気ない行動や言動。それが心地がいいのか、苦しいものなのかも分からないまま、ふわっと薫る過去の誰かに意識をさらわれていく。 身体を重ねるようになるのに、そう時間は掛からなかった。男と女が同じベッドで寝て、何もなかったことの方が不自然だったのだろう。今は、そう思う。初めて一緒に添い寝だけをした朝、髪を撫でてくれた手が、今まで感じたことがないほど優しくて、丁寧で。自分が、か弱くて可愛らしい女の子にでもなったような気になった。肌の質感が、社会人になって初めてできた恋人のそれを思い出させる。筋肉質で張りのある、さらっとした肌。 いつから、こんな想いを抱いてしまったのだろう。たまに、一緒に寝られるだけで良かった。縛られず、未来を見据えて仕事をし、やりたいことを好きなだけやりたかった。好きな人など、不要だったのに。体の距離は、心の距離までも縮めてしまったのだろう。女が浮気をしてはいけないのは情が湧くからだ、と聞いたことがある。その通りだと思う。容易く、罠に掛かったのだ。
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