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坂木はクロスを握りしめた。
辰巳にもう一度『大丈夫か?』と聞かれたら坂木は大丈夫だと言える自信はなかった。
またあの感覚が体の中心でよみがえる。
鉛を呑み込んだように胃の辺りが重く、息が苦しい。
フェンスをつかんでゆっくり立ち上がる。
空が少し近づいた。
------坂木さん
坂木は息を止めて振り返った。
けれどそこには青い空があるだけだ。
あの優しい、いたずらっぽい笑顔はそこにはなかった。
いつも坂木を気遣い、そばにいてくれたあの青年はもういなかった。
坂木はそれでもまだ何かを探すように幻聴の方を見つめている。
「坂木」
辰巳の声が喝を入れるようにビリリとその場に響いた。
「さあ、行くぞ。まだお前の仕事はいっぱい残ってる。お前にしかできない仕事だ。
俺たちが道を踏み誤らないようにしっかり舵をとってくれ」
坂木は緩慢な動きで辰巳を見た。
「ああ……。わかってるよ」
坂木は背を丸めたまま、階下に降りるべくゆっくりドアの方へ歩きはじめる。
すれ違う時、辰巳は静かに呟いた。
「お前は あいつの最後の言葉だけ覚えていろ」
「……」
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