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「あの、幸村さん?」
「ん? 何?」
「えーと、先輩さんがバースデーケーキの注文をしたいっておっしゃってるんですけど、私、オーダーケーキの見本を探せなくて……すみません」
「あ、すぐに行くよ」
申し訳なさそうな顔の優里ちゃんに笑ってみせ、急いで手を洗う。
バースデーケーキ、か。
「先輩、こちらが見本なんですが、お誕生日はいつですか?」
「あぁ、ありがとう。来週の木曜日に、今と同じ時間に受け取れるように頼みたいんだ。チョコレートケーキがいい」
「大丈夫ですよ。じゃあ、チョコレートケーキの4号で良いですか? 3、4人分はありますから」
「じゃ、それで頼む。あと、この前、新作だと教えてくれたシュークリームとフルーツのサンドケーキも別に頼む。そっちはひとり分でいい」
「かしこまりました。そちらもバースデー用ですか? チョコプレートのメッセージはテンプレで良いんでしょうか。それと、あの……お誕生日の方のお名前を……ご記入いただけますか?」
しまった。淀みなく営業トークを展開してたつもりだったのに、肝心のところで詰まってしまうなんて。
「あー、名前、か。うーん……」
でも先輩は、俺の強張った顔には気づかない。俺が差し出した用紙だけを見て、自分の物思いに沈んでいく。
「じゃあ、4号のケーキは『早宮』で。それと、ひとり分のほうを『那智』……で、頼む」
少しの躊躇いの後に名前を記入した先輩が見せた、照れた表情。これは想定内。それでも、やはり胸は痛む。
「……承知しました。両方とも、お名前の後ろは『さん』づけで良いですか?」
俺は、息苦しいのを我慢して、まだ尋ねなければいけない。
「あぁ。あ、いや……ひとり分のほうは、『さん』は不要だ」
「はい……わかりました」
それまでよりも更に照れた表情が、ふいっと横を向いた。
黒縁眼鏡が怜悧に見せている横顔は、今、誰を思い浮かべているのか。
考えるまでもない。このバースデーケーキの受取人だ。早宮那智。
先輩が開業した整骨院のスタッフで、先輩の片想いの相手。
この人と、もうひとりの事務スタッフに慰労のために差し入れるケーキを、先輩は毎週買いにきてくれる。午後の休憩時間に、三人揃って食べるんだそうだ。
俺は、大好きな先輩に食べてもらうため。
そして、先輩が好きな相手に贈るためのケーキを、ずっと作り続けている――――心を込めて。
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