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「ふーん、幸村真南か。綺麗な響きだな。いい名前じゃん」
名前を聞かれて、名乗った。ただそれだけのことなのに、俺の心には、ぽうっと温かい火が灯った。そんな錯覚を覚えた。
女みたいな名前だって貶されたり笑われることはあっても、『響きが綺麗。いい名前』と褒めてもらうのは初めてだ。
「俺は、千葉啓史な。あ、『けいじ』じゃねぇぞ? 『けいし』だからな。そこ、間違えんなよ?」
そして、尋ねてもいないのに丁寧に自己紹介してくれたその人は、次に口を開けた時には、口いっぱいにシュークリームを頬張っていた。
大きく口を開け、躊躇いなくかぶりついた皮から、むにゅっとはみ出たカスタードクリームが口端に乗ったまんまだ。
その、見た目を気にしない豪快な食べっぷりに触発され、『お前も食えよ』と手渡されたシュークリームに俺も口をつける。
「あ、美味しい」
「だろ? 購買のシュークリームも、なかなかイケるんだよ」
かぷっと、ひと口。続いて口内に広がったカスタードクリームの甘さに、即座に先輩と顔を見合わせた。
「俺のお気に入りなんだ。この、ドロッと質量のある甘さが堪んないよなっ」
「うわ……」
直後、絶句した。
なんて表情で笑うんだろう、この人は。
蕩けるような笑顔って、このことかな?
端整な容貌に、理知的な黒縁眼鏡。眼鏡が縁取る切れ長の目元は、一見、鋭い印象だ。
なのに、今、俺に向けられてる表情の“甘さ”ときたら――。
とんでもないよ、これ。ギャップの差が凶悪的!
「どうした? 食わねぇの? もう腹いっぱいか?」
「あ、いえ……し、しっかり味わいたくて。ゆっくり食べてただけですっ」
口を開けたまま、ぼうっと見惚れてしまってた。怪訝そうな顔が近づいてきたことで、そのことに気づき、慌てて誤魔化す。
「なぁ、幸村?」
なのに、せっかく後ろに身を引いて離れたのに、先輩の手が追いかけてくるんだ。
俺の名を呼びながら伸びてきた指先は、最初は肩に。ぽんっと優しく、励ますような感触を落としてくれたそれは、次に――。
「……っ」
左胸、心臓の位置で止まった。
「どうだ? 入れ替え、できたか?」
「え?」
入れ替え? 何の?
「ここに溜めてた鬱屈は、さっき俺に全部吐き出したろ? それで空っぽになったところに、栄養分になるスイーツを食った。なら、もう後は元気に泳ぐだけじゃね?」
少し強めに、胸が押された。それを合図のように、勢いよく頷く。
「はい……はいっ、ありがとうございますっ」
「ん。よし、理解力のあるお前には、特別にもう一個やる。食え」
「いえ、シュークリームはもういいです」
「何だとぉ! 先輩の厚意を無にするとは、生意気な後輩め!」
言葉とは裏腹な嬉しそうな表情を見せてくる先輩に、俺も笑顔を返す。指摘された通り、鬱屈はもう無い。
『全部吐き出してみろ』と先輩に促されるまま、泣いてた理由は、さっきぶちまけた。
水泳部に入部して半月。もともと才能があったわけじゃない。ただ、泳ぐことは好きで。だから入部した。
当然ながら、タイムはなかなか伸びない。他の一年生部員たちは、次々と結果を出してるのに。
それでも何とか皆に追いつこうとガムシャラに練習に励んでる時に聞こえてきた、3年の先輩の声。
『あんなチビが、いくら泳いでもタイムなんか出るわけないじゃん。見ろよ、あのリーチ。めっちゃ短いし。やべー、ウケる!』
胸を抉られた。
チビなのは、自分が一番わかってる。けど、 体格の不利を努力で補おうと頑張っていた俺には、キツい言葉だった。努力する姿を笑われてしまっては、もう続けられない。
誰も居ない部室で思いっきり泣いてから、明日退部届を出そうと決めた。
けど、千葉先輩は、俺に『泳げ』って言う。まだ頑張れるだろ。俺と続けようって。
続けて、いいの? また笑われないかな?
でも、まだ諦めたくない気持ちもある。それなら、もう少し続けてみようかな?
この人に、毎日会えるなら――。
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