それは電車で始まった

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 今朝はついのんびりしてしまい、出勤するために家を出るのが遅くなった。暑い中を、駅まで日傘を差す余裕もなく走る。しかも、駅のホームで私好みの男性を発見してふらふらとついて行き、一番混んでいる扉から乗車してしまった。  車内冷房は効いていても、しばらくは息も切れるし、汗だくにもなる。揺れる車内で踏ん張りながら化粧崩れを気にしているうちに、電車は次の駅に停まった。  大勢の人が乗り込んで来た。ぎゅうぎゅう押されるままになっていると、目の前に、背広の背中が現れた。でも残念ながら、先程の私好みではなかった。 背中はどんどん迫って来る。  化粧が他人様の服に付いてしまっては困る。私は身動きが取れない中、できるだけ首を反らせた。そのまま、次の駅までの十数分を耐え抜かなくてはならなかった。  次の駅で更に人が乗り込み、皆が少しずつ身じろぎした。何とか体勢を変えようとした瞬間、顔が例の背中に密着した。  あ、ついた。  扉が閉まる音がして、電車が走り出した。  ああ全く、都会の通勤ラッシュには困ったものだ。こんなことなら、私も二十代の売り手市場のうちに、もっと近所に転職しておくべきだった。引き抜きのチャンスだってあったのに、愚かにも、もう思い出せない理由で断ってしまった。 私は揺れのままに右に向き、左に向いて顔をなすり付けた。この背広は通気性の良さそうなざらざらした布地で、夏にふさわしい。  もうファンデーションも、チークも口紅も、すっかり落ちてしまっただろう。降車駅に着いたら直すとするか。
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