それは電車で始まった

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 違う。今考えるべきことはこれじゃない。  どうしよう、この背中。逃げようか。この混雑でまだ本人も周囲も気づいていないだろう。次の品川駅で車両を変えればごまかし切れると思う。私だってこの顔で歩くのを我慢するんだから。痛み分けということでいい。  背中からは微かな男性向けの香水の香りがする。身だしなみを気にする人なのだろう。  品川駅に到着した。人が動き始め、私はその男性からようやく顔を離すことができた。少し離れた背中を、うつむきながらも横目で見上げてみる。見事な顔拓が取れていた。 扉が開くと同時に、人がどっと押し出された。その男性も動いた。ここで降りるんだ。  細身の、神経質そうな背中の主はこのまま恥をかきながら出勤し、顔拓に気がついたら怒るのだろうか。  そうしたら、今日は上着がなくて困ったりしないだろうか。クリーニング代もこの人が払うのだろうか。もちろんそうなってしまう。  そもそも、私が今朝、のんびり化粧をしながらテレビを見たのがいけなかった。電車ももっと向こうの扉から乗るべきだったのに、目の色を変えて私好みを追いかけるなんて、若い頃には考えられなかった。歳を取るにつれて動きが鈍り、図々しくなっている自覚はあった。全く、油断していた。  やっぱり早く転職しておくべきだった。  許してもらえますように。  私はため息をつくと、その男性を追った。
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