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しかし、何もかも元通りとはいかなかった。妻の記憶は1年前から進むことはなかった。たかし君は小学生のままだし、おふくろも入院していない、三丁目のスーパーもできていない。
「わたし、途中から気付いていた。でも知らないふりをした。嬉しかったのあなたが残業もせずにまっすぐ帰ってきて、手料理をほめてくれて」
私はうつむいたまま妻の顔がみられなかった。
「でも、もうそろそろ終わりにしましょう。この生活も卒業しなきゃ」
「良子」
「ねえ、知ってる?故人をしのぶのも大切かもしれないけれど、それと同じくらい忘れてあげるのも大切だって」
私は涙と鼻水でくしゃくしゃになった。
「それで生きている人は日常を取り戻すことが故人への何よりの供養になるんだって、私たちもその時がきたのかな」
わたしの口からはなにも音を発することができなかった。
「いままで、ありがとうさようなら」
そう言うと同時に妻の姿は輪郭からぼやけていった、妻の目にはうっすら涙が浮かんでいた私の情けない顔とは大違いだ。そして完全に姿が消えた。
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