夜行バス

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 八月の下旬、四度目の体外受精が失敗に終わった後、今までになく空虚な気持ちに襲われた。それまで何事も体験だとばかりに、様々な治療法を試し、食事を改善したり、スポーツクラブに通っていたのに、もう出かけるどころか家事だってしたくないのであった。  それでも買い物は出ないわけにはいかないのに、いざ出かけようとしてみても化粧をしたくない。そもそも着替えたくもない。ソファーの上で顔をこすったり、体を掻いたり、天井や家具の汚れを眺めたり、そんなことで一日が終わっているのであった。  夫は家具職人で、一カ月に休日は三日しかない。無口で働き者、そして妻を始めとする人間全般に興味がなかった。帰宅すると熱心にカブトムシやクワガタの世話をして、少ない休日は夜釣りに出かける。    担当医からは、夫の精子の状態では自然妊娠は難しいと言われていた。それを伝えると夫は大層不満げな顔をして、 「あんな容器に、ちゃんと出せるわけない。そんな人いない」 と憤った。  看護士によると、男性側の不妊が判明した場合、男性はほとんど全員が冷静さを失い、医師に怒りをぶつけるらしい。夫は目の前に医師がいないので妻の私にそう言ったが、すぐに関心の薄れた顔でそそくさと夜釣りに出かけて行った。 「楽な夫だ。そして残酷な男だ」  ソファーの上で、ため息を吐き出した。空っぽのはずの子宮が重い。薬や注射の副作用で、ここ数年吐き気がまとわりついている。  夫が言い出して始めた不妊治療だったが、どうも彼が欲しいのは一緒に遊べる『弟』なのではないか。そんなもの、私が産めるわけがない。夫は悩むのは妻の役目と言わんばかりに、自分の生活のペースを軽々と保っている。憎らしい。    冷えは妊娠に良くないと聞いてから、夏でもあまり冷房をつけない。前夜の豪雨で、その日はことさらに蒸し暑かった。湿気を取ると言われるお香に火をつけた。白い羽衣のように、煙が立ち昇り揺らめく。まるで生きているように、天に昇ってゆく。   これを見ているのは私一人だ。たった一人で弔っている。  誰を?  着床さえしてくれなかった、卵の。  疲れた。  因果を追及することに。  いつの間にか何かを責めていることに。  本当に子供が欲しいのか分からなくなっていることに。  だから旅に出た。
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