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戻る前再度「本当にここで良いんですか?」尋ねられた。自分はもう一度肯定する。
「はい、ここで」
「そうですか。畏まりました。……ここ、日の入りも良いですし、角ですし、良い物件ですものね」
にこにこして、ファイルを鞄に仕舞いながら担当者が言う。自分も同意した。
もっとも、決めたポイントは、そんなところでは無かったけど。
「ちょっと遠いですけど、素敵な部屋ですからきっと、良いことが在りますよ。
お客様も、素敵ですから。既婚者の私が言うのも何ですけど」
一瞬何を言われたのか理解が追い付かなかった。間を置いて考える。もしかして、励まされているのだろうか。
誤解をしていけないのは、彼女が、とても良い人だと言うことだ。
彼女は、元気付けたいのだろう。多分、自分がとても暗い、顔色の悪い状態で店を訪ねたのに起因している。現状、しあわせな彼女は、屈託無く、他人のしあわせを願っている。本気で。
「……」
“素敵”、か。
「……だと、良いんですがね」
見目が良いのは、知っている。武器にしたことだって在った。だけども、これだけじゃ。中身は……。
これから一生をたいせつな人と共に生きる彼女は、目の前の人間が、彼女の願うような、しあわせな一生を生きてほしくて、いっしょにいてくれた相手を切り捨てることを、知らない。
知らなくて良い。
彼女のしあわせは、彼女が努力して手に入れたものだ。水を差して、崩れて良いものじゃない。
ゆえに、自分は笑うしか無いのだ。
「ありがとう」
メッセージが、表示される。仕事の関係だった。彼から、来るはずも無い。SNSアカウントは軒並みブロック、メールも受信拒否、電話も着信拒否。
あれから一箇月。そろそろ愛想も尽きただろうか。
そうでなくては困る。布団に潜って端末の画面を流し見しつつ思った。
愛想を尽かして、自分のことを忘れて、早くしあわせになってほしい。
エゴだろうか。……かもしれない。結局振り回しただけだ。むくりと、起き上がる。布団が捲れた。布団が無くても、静かだった。返信した端末を放る。
いっそ、静謐と呼べそうだった。現在の自分は、寂然のほうが合っているのかもしれないけれど。
この部屋には、何も無い。物理的なことでは無い。本質的な、空虚さ。
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