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「…」
あの明るい母親に育てられた、のびやかな心の持ち主。
大矢さんいわく、『びっくりするほど綺麗』な心の持ち主。
こんな仕事をしている自分に対しても、最初からまっすぐに話しかけてくる。
AV嬢から突然告白された時に真剣に対応してあげた事も、高橋という現場スタッフの無駄話を(ゲームしながら)聞いていたから知っている。
お人好しで正直で、思ったことがすぐに口から出てしまう。
自分が人の命を助けたというのに、恩に着せたりするつもりはこれっぽっちもない。
というか、そんな事は思いつきもしないのだろう。
今は閉じられている、黒目がちの瞳。
さらさらとした茶色の髪に、少しだけ指先を触れさせてみる。
冷たい、感触。
ちょっと笑って、もう少し指を滑らせて、頬に触れる。
「ん…」
瀬尾が少し、身じろぎをした。
むに、と頬を押してみるが、酔っぱらいはそれでも起きる気配はない。
「…」
そっと、指で唇に触れてみる。
少し乾いた感触がして、吐息の熱さに指先が湿る。
しばらくためらってから、指先を少しだけ唇の中に滑り込ませた。
歯と歯の間から、濡れた舌に触れる。
「んっ」
さすがに身じろぎをした瀬尾だったが、やはり酒がまだ効いているのか、目を覚ます事はなかった。
指をひっこめ、体をかがめてみる。
自分の鼻と瀬尾のそれがもう少しで触れ合いそうなほど、近くまで。
瀬尾の吐息が、自分の唇にかかる。
『せおさん』
一度も口にしたことのないその名前を、吐息だけで呼んでみる。
『せおさん』
甘いキャンディを舌の上で転がすように、何度も何度も、呼んでみる。
おもしろいひとだねえ、あんたは。
誰も見ている者がいないその暗い空間で、安心して柔らかい笑みを浮かべる。
もう少しの間だけでいいから、あんたと一緒にいたい。
いまだけでいいから。
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