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「橡殿は私を助けてくれた。それなのになぜ畏れることがありましょう。穢れるというのなら、むしろ──」
言いかけた言葉が引っ込んだ。自分の身体を撫で回した男たちの手指の感触が甦る。それらを追い出そうと、強い語調で吐き捨てた。
「崇高な人間などおらぬ」
橡が、ふ、と息を呑んだことが分かった。
「人間はみな卑しい。穢れも清冽もくだらない。まやかしに過ぎぬ」
思わず力を込めてしまった手の中で、仔兎が苦しそうに鳴いた。はっと我に返った蘇芳を見て、橡が淡く笑った。そして蘇芳の背後を指さし、言った。
「この先に沼がある。行きますか」
「沼?」
「蘇芳様、あなたも泥だらけですよ」
目の前に開けた光景に蘇芳は息を呑んだ。人の通ったあとがない、草木の茂ったけもの道を橡の後をついて登ると、程なくしてその沼は現れた。
小さい沼だった。折り重なって立つ木々に囲まれ、まるで隠されているかのように水を湛えている。
そしてとりわけ蘇芳の目を奪ったのは、水面の色だった。鮮やかな緑色だ。周囲の木々の姿を汀に映しながらも、色は独自の美しい緑色なのだ。どこからあの色は噴いているのだろう、と蘇芳は不思議に思った。
立ち止まってしまった蘇芳を橡が振り返った。
「ここは初めてですか」
高揚した気分を抱えたまま、蘇芳は大きく頷き、「はい」と答えた。
「でしょうね。この沼に村人は近付きません」
「なぜでしょう。こんな美しい沼なのに」
「大蛇が住むと語り継がれているのです。近付いたものを引きずり込み、食らうという」
そう言うと橡は草履を脱ぎ捨て、自らの足先を沼の水に浸した。
「蘇芳様もその泥だらけの着物を洗うといい。木の幹にでも干しておけばすぐに乾く」
蘇芳は戸惑った。そのためには着物を脱がなければならない。
彼の逡巡を察したのか、橡が笑った。
「安心してください。例え大蛇が出てきても、俺があなたを守ります」
「そ、そういうわけでは」
男女問わず、夏場は半裸のような格好で農作業をする村の人々と違い、蘇芳は肌を人目に晒すことに慣れていない。そんな蘇芳の心中をまたも読んだらしい橡が首を振った。
「……ああ。ここに人は来ません。人目もありませんから、ご安心を。それにそんな汚れた格好で家に戻るほうが、蘇芳様の母君を心配させるのではありませんか」
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