(一)

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「橡殿は私を助けてくれた。それなのになぜ畏れることがありましょう。穢れるというのなら、むしろ──」  言いかけた言葉が引っ込んだ。自分の身体を撫で回した男たちの手指の感触が甦る。それらを追い出そうと、強い語調で吐き捨てた。 「崇高な人間などおらぬ」  橡が、ふ、と息を呑んだことが分かった。 「人間はみな卑しい。穢れも清冽もくだらない。まやかしに過ぎぬ」  思わず力を込めてしまった手の中で、仔兎が苦しそうに鳴いた。はっと我に返った蘇芳を見て、橡が淡く笑った。そして蘇芳の背後を指さし、言った。 「この先に沼がある。行きますか」 「沼?」 「蘇芳様、あなたも泥だらけですよ」  目の前に開けた光景に蘇芳は息を呑んだ。人の通ったあとがない、草木の茂ったけもの道を橡の後をついて登ると、程なくしてその沼は現れた。  小さい沼だった。折り重なって立つ木々に囲まれ、まるで隠されているかのように水を湛えている。  そしてとりわけ蘇芳の目を奪ったのは、水面の色だった。鮮やかな緑色だ。周囲の木々の姿を汀に映しながらも、色は独自の美しい緑色なのだ。どこからあの色は噴いているのだろう、と蘇芳は不思議に思った。  立ち止まってしまった蘇芳を橡が振り返った。 「ここは初めてですか」  高揚した気分を抱えたまま、蘇芳は大きく頷き、「はい」と答えた。 「でしょうね。この沼に村人は近付きません」 「なぜでしょう。こんな美しい沼なのに」 「大蛇が住むと語り継がれているのです。近付いたものを引きずり込み、食らうという」  そう言うと橡は草履を脱ぎ捨て、自らの足先を沼の水に浸した。 「蘇芳様もその泥だらけの着物を洗うといい。木の幹にでも干しておけばすぐに乾く」  蘇芳は戸惑った。そのためには着物を脱がなければならない。  彼の逡巡を察したのか、橡が笑った。 「安心してください。例え大蛇が出てきても、俺があなたを守ります」 「そ、そういうわけでは」  男女問わず、夏場は半裸のような格好で農作業をする村の人々と違い、蘇芳は肌を人目に晒すことに慣れていない。そんな蘇芳の心中をまたも読んだらしい橡が首を振った。 「……ああ。ここに人は来ません。人目もありませんから、ご安心を。それにそんな汚れた格好で家に戻るほうが、蘇芳様の母君を心配させるのではありませんか」
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