(一)

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 母という言葉にはっと蘇芳は身を震わせた。そうだ。母を心配させるわけにはいかない。  抱いていた仔兎をそっと地面の上に置いた。手早く着物を脱ぎ、何一つまとっていない姿で水に入る。襲われた証しである着物の汚れを手早く洗い落とした。 「肩も。頭も」  すると背後で声が上がった。えっと身体を起こす間もなく、肩を掴まれ、全身を水の中に沈められた。 「!」 「しばしご辛抱を。髪にも泥が付いている」  そう言いながら、橡は一つにくくってある蘇芳の髪をほどいた。水面に黒髪が扇のように広がる。橡は髪を結んでいた紐を口に咥え、蘇芳の頭や身体に付いていた泥を指先で拭い始めた。  最初は抵抗してもがいていた蘇芳だが、次第に彼の指に任せるようになった。沼は浅く、蘇芳は自然と正座する形になった。緑の水面に自分と橡の影が落ちている。  やがて、泥を洗い落としてくれた橡が離れた。立ち上がった蘇芳は、目の前の橡の腕に、赤い何本かの筋を見つけた。自分を襲った男に引っ掻かれた痕だ。思わず一歩歩み寄り、その痕に触れた。  赤い痕は橡の肌の上で哄笑しているように見えた。痕を指でなぞりながら、蘇芳はつぶやいた。 「痛くはありませんか」 「……別に。ガキの頃はこんな傷はしょっちゅうだった。こう見えても、俺は腕っ節が強いんです。喧嘩は日常茶飯事でした。死んだ親父の後を継いで、魂込めビトになってから、村の連中は俺に触れもしませんがね」  蘇芳は顔を上げた。水に浸かった橡の着物もしとどに濡れていた。互いの髪からぽたぽたと滴が滴り落ちるのを見ながら、蘇芳は胸が苦しくなることを感じた。  土地の穢れを負う魂込めビトになった橡は、喧嘩すら厭われるのだ。  頭上でぴぃ、と鳴き声を立て、二羽の小鳥が行き過ぎた。その声を聞きながら、なぜ我らは飛べぬのだと、蘇芳は頑是なく考えた。 「あなたの目は濁りがない」  すると、黒く艶やかな髪から水を滴らせた橡がつぶやいた。彼の目は真正面から蘇芳の姿を捉えていた。蘇芳の胸がまた苦しくなる。  が、その苦しさには同時に、息もつかせぬ甘さも忍び入っていた。蘇芳はその甘さを不思議だと感じた。  また小鳥が頭上で鳴く。その声の真下で、地上にいるしかない蘇芳と橡は立ちすくんでいた。  先に視線をそらせたのは橡だった。困ったような笑顔を見せると、自分の濡れた着物を脱ぎ出す。
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