(一)

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「俺のも干さなければ。本当はあなたの着物を乾かす間、この着物を貸そうかと思っていたのですが。こう濡れてしまっては」 「私に?」  橡が蘇芳の横をすり抜ける。 「あなたのその姿は、目の毒だ」  そうさらりと言ってのけると、橡は岸に上がり、手に持った着物を固く絞った。それから大きく広げ、ぱん、と張る。  黒い布地の翻る様を、蘇芳はじっと見つめていた。彼の言葉が、その動きに合わせ、どこかへ飛んで行ってしまうように思えた。  数日後、蘇芳は怪我の治った仔兎を野に帰すため、同じ山道を登った。夜半という時間を選んだのは、また荒くれた男たちに出くわすことを警戒したのだ。  空には半月から少し膨らみを孕んだ月が、臨月の女のような姿を晒していた。その月光に助けられ、蘇芳は山を登った。  最初に罠を見つけたあたりでそっと仔兎を離す。小さい生き物は戸惑うように辺りを見回したが、すぐに深い草の中へと消えた。月光を湛えた葉がゆらゆらと揺れる。兎が揺らしたのか、それとも月光の重さで揺れたのか、蘇芳は青白く輝く揺らめきをしばし見つめていた。  やがて踵を返し、音もなく山道を下った。自分も母一人が待つ家へ戻らねばならない。自然と足が速くなる蘇芳は、だから気付かなかった。  頭上の木の幹の上で、ずっと自分を見下ろしていた視線があったことを。  夜陰に紛れ、すぐに見えなくなった蘇芳の後ろ姿を目で追いながら、橡は月を見上げた。  もとは名のある大名に庇護されていたせいか、蘇芳の物腰は常に柔らかく、粗野なところは一切ない。父親が何らかの咎で斬首された罪人だということだが、それにしてはのどかな顔をしていると橡は思っていた。  憤りや悲しみといったものより、表情の透明さが勝っているように見える。だから橡は、蘇芳は無垢や無邪気というより、間抜けなのではないかと思っていた。自分の現在の状況に歯噛みして、奮起するだけの能もない間抜けなのではと。  だが。  橡の脳裏に、数日前蘇芳が垣間見せた激しい表情が甦る。  崇高な人間などいないと吐き捨てた蘇芳。その顔は押さえこんでいた憤怒が溢れ返り、生き生きと輝いてさえいた。端正な人形の面が割れ、生々しい人の顔が覗いたかのようだった。  ふっと橡は息をついた。あの顔を見た瞬間、自分の中に湧き上がったものを無理に退ける。
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