(一)

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 これからある男の家へ向かわねばならない。そう思いながら、ふっくらとした腹を突き出しているかのような月をもう一度眺めた。  ここから見る月は近い。手に掴めそうなほどだ。橡は月を見るだけでなく、昼間もここに上っていることが多かった。  この木の上から眺める山々の丘陵は果てもなく広く、自分が取るに足らぬちっぽけなものだと実感できる。それでいて吹く風と、表情をたゆまず変える空と一体であるかのような心持にもなる。だから橡はこの場所が好きだった。今夜も約束の家に赴く前に、ここで月を眺めていた。そうしたら思いがけなく、蘇芳がやってきたというわけである。  数日前助けた兎を放してやったようだ。やっぱり間抜けだ、と橡は一人笑った。あんなちっぽけな動物を救うために、自分が襲われかけたのだから。  それでも、気付くと眼下の闇に目を凝らしていた。無意識のうちに、蘇芳が放した仔兎を探す。  人の手に慣れた動物が、果たして野生に戻るかどうか疑問だが…… 「生きろよ」  そうつぶやいた自分に戸惑った。はっと蘇芳が消えたほうを見る。  彼の優しげな姿が、そこに立っている錯覚に襲われた。  目指す家に近付くと、夜半を過ぎているというのに、中から騒がしい笑い声が聞こえてきた。戸を開けた橡は内心うんざりする。案の定、相手は泥酔していた。 「おおやっと来よった、魂込め様ぁ」  そう叫んで飛び起きた大路(おおじ)の顔は真っ赤だった。代々村の神事を担う社(やしろ)家の長男坊だ。  普段はほかの村人と変わらないが、魂込め以外の神事も取り仕切る社家は、村長(むらおさ)的役割も担っていた。数年前から身体を壊して伏せっている父親の代わりに、神事や人形作りを仕切るようになった大路は、実質村長的立場である。すでに彼に逆らえるものは村には存在しない。  つまり蘇芳と「人形競い」をするのはこの男なのである。 「お前らもう帰れ、明日も朝から仕事やろがぁ」  そう言いながら、大路は土間や囲炉裏端で酔っ払って寝転がっている男衆を蹴り付けた。ぶつぶつと文句を言って起きようとしない男には、声を張り上げて叫ぶ。 「おらぁ、魂込め様がいるんやぞ、噛みつかれるぞぉ」  そう言うと、大半のものがひぃと悲鳴を上げて飛び起きた。橡の姿を見ると酔いも醒めるのか、白々とした顔で睨んでくる。その中に、数日前蘇芳を襲った三人がいることに橡は気付いた。
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