(一)

18/23

52人が本棚に入れています
本棚に追加
/73ページ
 水のきらめきを全身にまとった彼は、確かに蛇のようにも見えた。灰色がかった青さが肢体を包み、橡をこの世ならぬものに見せていた。水底に巣食うあやかしを引き連れ、うつつの世に這い上がってきたようにも思える。  蘇芳はいつしか時も忘れ、じっと橡の姿を見つめていた。  その時、気配を感じたのか、橡が肩越しに振り返った。蘇芳と目が合う。一瞬、その黒い瞳が揺れたように見えた。  橡が岸に上がる。そして一糸まとわぬ姿のまま、蘇芳のほうに向き直った。月光を上から、その光を湛えた水の光を下から浴びながら、二人は向かい合った。  互いに無言だった。けれど言葉はいらなかった。あらゆる光が、風や木々の音が、二人よりはるかに雄弁に語っていたからである。  すると、橡がふっと表情を崩し、笑みを見せた。とたんに刺すような痛みが蘇芳の全身を熱くする。橡の唇がひそやかに動く。声は聞こえない。蘇芳の目は彼の言葉を聞き取ろうと、食い入るように唇を見ていた。  が、程なくして、橡は岸に脱ぎ捨てられてあった着物をまとうと、木立の中へと消えてしまった。村の外れにある彼の家へ戻るのであろう。  橡の気配が消えて、やっと蘇芳は息がつけた。震えていた。苦しい。これはなんだ。そう思いながら胸を押さえる。  彼に抱かれるんだ。そう思ったとたん、がくりと脚から力が抜けた。土の上に膝をつき、自分の胸を右手で掴む。  魂込めの人形こそが彼に抱かれるのだ……  得体の知れないざわめきが、身の中心から溢れ出る。畏れながらも、どこか陶然としている自分に蘇芳は気付いた。  選ばれた人形の前で彼は女を抱き、人形に魂を込める。彼は同時に人形も抱いているのだ。その人形を、私は作る──  そう思うと、苦しさがよけいに蘇芳の心身を引っ掻いた。またも、作るべき人形の輪郭が遠くなることを感じた。  次の日も、また次の日の夜も蘇芳は沼へと足を向けた。毎日、夜が深みを増し、月がいざなうように空の中天へとのぼる時を選んだ。  夜空はここ数日晴れていた。夜道を歩く蘇芳の足元を、忍び寄る月光がつき従う。  橡も毎晩沼にいた。この世の不思議を映したような色の沼を泳いでいる。そして岸に上がり、蘇芳と一言も口をきくことなく去っていく……ただこの繰り返しだった。
/73ページ

最初のコメントを投稿しよう!

52人が本棚に入れています
本棚に追加