(一)

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 けれど蘇芳は、そんな彼の姿を見るうち、次第に人形の輪郭が浮かび上がるように思えていた。頭の中で相貌が自然と形を成し、色を孕む。それは自分の心身をも形作るように思え、はっと胸を押さえることすらもあった。  なぜだろうと蘇芳は思った。なぜこんなにも、橡という男は自分の想像や創作の熱意を刺激してくるのだろう。  満月を過ぎ、再び萎み始めた月灯りの下で、今夜も二人は無言のままに別れるはずだった。  ところがこの夜は違っていた。いつもなら対岸に上がる橡が、蘇芳のほうへと泳いで近付いてきたのだ。水面を、きらきらときらめく光の筋が、伸びては、消える。  月光を浴びた美しい蛇だ。  そう思った蘇芳は、橡が沼から上がり、自分の目の前に立ってもなお、ぽかんと彼の顔を見つめていた。水の匂いがした。 「蘇芳様」  これは幻ではない。そう思いながらも、彼の輪郭を染め出す月光が、すべてを夢のようにほろろと見せていた。 「なぜ、俺を見る」  答えられなかった。なぜ呼吸をする、と訊かれているようなものだと思った。  突然橡の手が蘇芳の手首を掴んだ。はっと身体を固くした時には、彼の両腕の中に抱きすくめられていた。 「訊いているのです。なぜあなたは俺をそのように見るのか」 「は、放してください、橡殿」 「あなたは自分で気付いていない。あなたの目は瞑い焔を宿らせている。その焔は焼きごてのようだ。見つめた相手の心身に、くっきりと痕を残す」  嘘だ。そう叫ぼうとした蘇芳より先に、橡が束の間身体を離し、蘇芳を覗き込んできた。 「見えますか……? あなたが俺に付けた傷が。ここだ」  言いながら、橡が強引に蘇芳の手を取った。自分の胸に触れさせる。引き締まった肉を覆う、なめらかな肌。伝う滴。指先から伝わるそれらの感触が、蘇芳の意識を遠くへ飛ばしてしまいそうになる。 「ここだ。黒く焦げている」 「嘘だ。そんなもの、ない」 「いいや。分かるはずだ。もっと触れて。それでも見えないと言うのなら、この肉を剥がしてやってもいい」  手首に橡の指が食い込む。痛さに、思わず蘇芳は彼の胸に爪を立ててしまった。うっと橡が低く呻く。はっと蘇芳は息を呑み、自分の付けた痕を見た。  橡の胸の上に付いた爪痕は、やがてほんのりと赤みを帯び、蘇芳の目の前に浮かんだ。 「ほら」  顔を寄せてきた橡が低くささやく。
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