(一)

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 白かった蘇芳の顔に、ほのかに色が戻ってきた。さわさわと、風が木々の葉を揺らし、水面を撫でて吹き渡る。 「確かに。私は母の言葉に縛られているのでしょう」  やがて蘇芳が小さい声でつぶやいた。 「私には人形を作るという行為が、自分にとって何であるか分かっていないのです。私は愚かで未熟です。この上、母の言うところの人形師としての『資格』まで失ったら……」  そう言うと蘇芳は悲しげに顔を歪めた。その相貌を月が照らし出し、この世のものならぬ儚さを醸している。橡はそんな蘇芳の姿に目を奪われていることを感じ、はっとした。  美しい。 「私は怖いのです。自分は何ものでもない、人形もろくに作ることのできない役立たずであると思うことが。けれど最後の自尊心の一線として、自分の至らなさに言い訳はしたくない。だからこの身を清廉潔白のままにしておきたいのです。貞操を捨てたからいい人形が作れなくなったのだという言い訳をしたくないのです。橡殿の言うとおり、バカバカしい世迷言でしょう。弱い奴だとどうぞ一笑に付してください」  この男、今にも崩れそうに見えるが、芯は強い。そう思った橡は、ふと聞いてみた。 「先日、あなたは言いました……崇高な人間などいない。人間はみな等しく卑しいと。なぜ、あのように思われるのですか」  橡の言葉に、蘇芳は戸惑った顔を見せた。が、すぐに苦く笑うと、答えた。 「人の心がいかにあやふやで移ろうものか……父が公金横領の濡れ衣を着せられ、斬首された時、私は散々見てきました。父を陥れた者どもは楚々とした顔で偽りを並べ、父と親交を深めていたはずの者たちは一様に素知らぬ振りをしました。信じられるものなどこの世にはないと、私はあの時知ったのです」 「……」 「どんなに美しく装おうとも、人である限り我執の頸木からは逃れられません。仕方ないのです。だから私は思うようにしたのです。人間はみな卑しいと。こう思うと、悲しい苦しいといった心持ちが薄れる気がするのです」  そう語る蘇芳の表情は、穏やかですらあった。諦念をも超え、無我の境地に辿り着いてしまったのか。じわりと滲むもどかしさが、橡の胸を焼く。 「……もっと違う自分になりたいとは思いませんか。すべてのしがらみから解き放たれた、自由な身に……」  ふっと蘇芳が弱い笑みを見せた。
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