(一)

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「自由とは何でしょう。言うならば、生きているものに本当の自由はない気がいたします。空を飛ぶ鳥たちにさえ自由はない。なぜなら生き残るために生のしがらみに縛られている。橡殿。我らも同じことではありませんか。我らは空に浮かぶ一片の雲にはなれませぬ」  清々しいほどに、欲の抜け落ちた顔で笑う。その表情を見た橡の全身を、この人の前で跪いてこうべを垂れたいという衝動が貫く。そんな自分に、橡は激しく戸惑った。  橡の混乱をよそに、蘇芳が言葉を次いだ。 「橡殿。お願いがあるのです」 「……はい」 「明日の晩からも、私がここに通うことをお許しください」  蘇芳の顔を見た。彼は穏やかな笑顔を湛えたまま続けた。 「あなたを見ていると、人形の姿かたちが浮かんでくるように思えるのです」 「……」 「私はあなたのために人形を作ります。あなたは女人を抱くだけではない、私が作った人形を──」  そこまで言うと、不意に蘇芳が言葉を途切れさせた。顔をほんのりと赤らめ、わざと沼のほうを見やる。  今度こそ、本当に彼を抱きしめたいという欲求が橡の中に湧き上がった。同時に苦しくなる。先ほど口にした偽りの甘言が、まさに棘となって自分を襲う。  痛い。苦しい。  なんてことだ。自分を押し流す、嵐のような感情に驚きながらも、橡は決意していた。  俺は、この方に、金輪際指一本触れまい。 「……蘇芳様」  自分の声に、蘇芳が視線を戻した。 「はい」 「無礼をお許しください。今後二度と、あのようにあなたを困らせるようなことは致しませぬ。二度と……あなたには触れませぬ」  すると、ほんのかすかに、蘇芳の顔が悲しげに曇って見えた。月光がその瞳に映って揺れた。  橡は蘇芳に背を向けた。一歩離れるごとに、月からも遠のく気がした。   *****
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