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そのあまりにも漠とした未来は、自分の中に沁み込んできた蘇芳の面影の前では、やけに心もとなかった。
大路の赤黒い口の中に、橡の疑問も葛藤も、すべて呑み込まれていく。
社の家を出た橡を、ノノが追いかけてきた。弾む若い身体を迷うことなく投げ出して抱きつくと、こう言った。
「橡はん、夜に沼に行ってんのやろ?」
橡はぎくりとした。蘇芳と一緒にいるところを見られたか。
嬉々とした表情を浮かべ、ノノは続ける。
「この前、月の綺麗な晩、ウチ橡はんの家に行ったんよ。そしたら橡はん、家にいなかったから……兄さんにそう言うたら、あいつ沼に行っとるなって。橡はん、昔からあの場所が好きやったんやってね」
大路に沼のことを気取られたのはノノが原因か。それでも、橡は少しほっとした。蘇芳の姿を見られたわけではないらしい。
橡の心中にはとんと気付かずに、ノノが喋り続ける。
「橡はんってホンマ面白い人やねぇ。あんな沼、村の人は誰一人畏れて近付かんのに。ねえ橡はん、今夜ウチも沼に行きたい」
ぎょっと橡は彼女を見た。
「沼に?」
「そう。ウチあの沼に行ったことがないんよ。やしぃ見てみたい」
「いや、でも。夜は暗い」
「橡はんは行くんやろ? そんなら一緒に連れてって! ウチも行きたいっ」
ノノの顔が強情な色を帯びる。この表情、兄そっくりだ。
橡は瞬時に思考を巡らせた。ここで頑なに拒んだら怪しまれる。さりとて沼に行っていないと言えば、それならどこへ行っているのだとしつこく問い質される。
「……分かりました」
そう答えるしかなかった。ノノの顔がぱっと輝く。
「ホンマ? ホンマね?」
束の間逡巡したが、橡はすぐに腹の底に力を入れた。彼女に向かって言った。
「ええ。その代わり、絶対大路には言わないで欲しい。絶対です」
手にした木片の木目をじっと見た。その流線的な生命の形に、しばし見入る。
やがてほのかに、彫るべき輪郭が見えてくる気がした。橡の姿が一瞬浮かび、消える。蘇芳は手元に置いておいた刀を持った。
考えた末、今度の人形は苦手な一木彫りにすることにした。頭を別にした作りの人形より、力を孕むように思えたのだ。
力。想いと言い換えてもいい。
吸い寄せられるように、刀の先が木目に近付く。互いが今にも張り裂けんばかりの気を放っている。木が、孕む。
その時だ。突然、頭上から声が降ってきた。
「蘇芳様」
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