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びくりと蘇芳は顔を上げた。納戸の小窓を見上げる。小窓から射す光は物憂げな密度を増しており、もう黄昏時なのだと分かる。
橡だ。日が出ている時分に訪ねてきたことなどない。蘇芳は手にしていた木と刀を作業台の上に置くと、あわてて立ち上がった。
「橡殿?」
「蘇芳様。そのままお聞きください」
小窓のすぐ下に控えているらしき橡が囁く。
「なぜそのようなところから。どうぞお入りください」
「いいえ。俺と一緒にいるところを見られると、あなたまで白い目で見られる。すぐに帰ります。そのまま聞いてください」
薄い板壁越しに彼の声が響く。思わず蘇芳は板に手を触れた。
「蘇芳様。あなたは木に登れますか」
ところが、橡は突拍子もないことを言い出した。えっと蘇芳は声を上げる。
「木? 木ですか」
「ええ。登れますか?」
「まあ多少は……」
「それでは」
橡が一段と声を落とし、板壁越しに蘇芳に囁いた。
板壁にぴったりと耳を付け、いつしか蘇芳は、自分の温もりが橡の温もりであるかのように錯覚していた。
風が少し強いせいか、夜空には雲がかかり、ほんのわずかの月光や星の光さえも隠していた。松明を持って先を歩く橡に付いて歩きながら、ノノは少し後悔していた。
何もこんな夜を選ぶのではなかった。というより、沼になど本当は興味がないのだ。橡がどうやら毎晩のように通っているらしいから付いていくと言ったに過ぎない。
木の根やごろごろした石、さわさわと鳴る草むらがノノの足取りを鈍らせる。この場所が切り立った崖のようにも感じられてくる。
さらには橡の周囲以外は一切の深い闇なのだ。黒々とした闇が自分を四方から見つめている。呑み込まんとしている。恐怖に身体が押し潰されることを感じながら、ついにノノは叫びそうになった。
もう帰りたい!
その時だ。松明の炎に照らされた橡が振り向いた。ノノに静かに告げる。
「着きました」
ノノは恐る恐る前方を見やった。
橡の姿の向こうに、ぼんやりと光る水面が見えた。うっそうと繁る木立に囲まれ、無言のままに炎を照り返す沼からは、確かに大蛇の一匹や二匹飛び出してきそうである。
「なぜ、こんな場所が」
声が震えてくる。自然と橡の身体にしがみ付いてしまう。
「こんな不気味な沼、ウチは好きやない、ウチは、ウチは」
ウチが好きなんは、橡はんや──
すると夜気の冷たさにも似た声で、橡が言った。
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