52人が本棚に入れています
本棚に追加
/73ページ
「では戻りましょう」
はっとノノは橡に抱きついた。
「嫌! ウチ、橡はんのそばにもっといたんよ。昼は兄さんや村の人の目がうるさくてそばにいられへん。やしぃこうして」
「ノノ殿」
「橡はん、なあウチのことぎゅっと抱いて、ほかの女には絶対に渡したくないんよ、ウチはずっと魂込めの女になりたかった、お願い、もうウチ以外は抱かないって言って」
とたんに、ノノの熱い言葉に煽られたかのように、ふ、と松明の炎が消えた。墨をかぶったような闇が二人を呑む。ひっとノノは悲鳴を上げ、橡の着物を握り締めた。
「つ、橡はん、火が、何も見えな」
その時だ。
声が降ってきた。
たれそ わが ねむりを やぶるは
ノノの全身が縮み上がる。体温が飛び、すぐ間近にいるはずの橡の感触も覚束なくなる。
われは ぬしなり
におふ におふぞ ちの においなり
がくがくと膝頭が震え出した。
声はわんわんと木立の間で跳ね返り、ノノの真上から降って来る。
ぐっと目を閉じた。けれど目を開いても閉じても、目の前は同じ漆黒の闇だった。恐怖のあまり、ノノの意識が遠くなる。
ここは われの ぬまなり やまなり
われは ははなり つまなり
にょにん はいるを ゆるさず
にょにん はいるを ゆるさず
ふっと身体から力が抜けた。
耐えられる一線を越えたノノの意識は、あっという間に闇に呑み込まれてしまった。
意識を失ったノノの身体を支えたとたん、流れた雲の隙間から月が現れた。同時に数多の星の瞬きも見える。橡は彼女の身体をそっと横たえると、頭上を振り仰いだ。
「蘇芳様」
橡の呼びかけに、かさりと頭上の梢が鳴った。程なくして蘇芳の声が降って来る。
「ここです」
現れた淡い月光を頼りに、橡も木に登った。一番低い幹の上に潜んでいた蘇芳の影を見つけると、そのそばに滑り込んだ。
「どうですか」
不安げな蘇芳の声に、橡は思わず笑ってしまう。
「蘇芳様に芸事の気があるとは思いませんでした。話に聞く都の猿楽役者もびっくりでしょう。ノノ殿は驚いて卒倒してしまいました」
「気の毒なことをしました」
「山の神は女性だと昔から言われています。女人が立ち入ることを嫌う。もうノノ殿はこの沼に来たいなどと言い出さないでしょう」
そのためにこの滑稽な芝居を打ったのだ。ここまで効果があるとは思わなかったが。
蘇芳が困った声を出す。
最初のコメントを投稿しよう!