(二)

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「でもここまでやらずとも……女性を無闇に怖がらせてしまったようで心苦しい」  橡は明るさを取り戻し始めた夜空を仰ぎながら答えた。 「いいのです。この場所だけは誰にも侵されたくなかった」 「橡殿」 「あなたと俺の場所だ」  ぼんやりとしか光の射さない夜目にも、ぱっと蘇芳の目が見開かれたのが分かった。その輝きを目に留めながら、橡は続けた。 「俺はこの場所が幼い頃から好きだった。理由は分からないが、なぜか落ち着くのです。俺の寂しさを癒してくれるような──」  寂しいと言葉にして、ふと口を噤んだ。隣に座る蘇芳は、夜の闇を吸い込む沼のように、黙したまま自分の傍らにいた。  二人はそれから、しばし黙って夜空を見上げていた。星々は手を伸ばせば掴めてしまいそうだった。 「……橡殿」  やがて蘇芳が口を開いた。星の囁きにも似た声に、橡は彼を見る。 「なんでしょう」 「私は以前、自由などないと言いました」 「ええ。覚えています」 「でも今は、あるかもしれないと思っております」  蘇芳が橡を見る。  星の光を映した互いの目が、すぐ近くにある。 「私の自由は、あなたです」 「俺……?」 「はい。あなたの目を見ていると、なぜかどこへでも行けそうな気がしてくるのです。なんでもできそうな。否、やってみようかと思わせる。こんな気持ちは初めてなのです」 「……」 「本当の自由とは違うかもしれません。けれど。例え身体がどこにも行けずとも、心さえ自分の思いのままに在れば……それもまた自由ではないかと」 「蘇芳様」 「橡殿。そう思わせてくれたあなたは、きっと、私の心を繋いでいた頸木を外してくださったのでしょう。感謝いたします」  思わず蘇芳のほうへと近付いた。両手は引力に逆らえない万物のように、自然と蘇芳の顔を包んでいた。蘇芳の身体が強張ったことを感じる。けれどそれは、すぐに彼の肌の内側に溶けていった。  闇が熱を発し、蘇芳の姿を形作る。ほのかに紅いはずの唇を求め、橡は顔を近付けた。  触れぬと誓った。  とたんに、その戒めが橡の全身を打った。はっと目を見開く。自分の唇のすぐ間近に、蘇芳の唇があることを感じる。 「……お許しください」  つぶやいた唇の先に、蘇芳の吐息が触れる。 「あなたに触れぬと誓ったのに。俺は」 「橡、」 「今すぐにこの身を離します。どうか、許して」
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