(四)

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 そこまで言うと、橡はふと口を噤んでしまった。蘇芳ははっと橡の顔を見る。 「橡、そのことですが」 「いいえ。いいえ、それ以上何も言わないで。あなたは明日にはこの村とは無関係の人間になる。ですからせめて今夜のこの時だけ、二人きりでいたい。あの沼で……」  互いを見る目の中に、神秘的な水の色が溢れ返る。沼に行きたいと切望する橡に、蘇芳も異論はなかった。二人は立ち上がり、互いを支えるように歩き出した。  闇が見守っていた。  音もなくついてくる背後の人影に、二人は気付かなかった。その人物は沼へ向かう二人の後を、迷いのない足取りで追った。  ぴたりと、まるで一つの生き物のように寄り添う二人を睨む目が、闇の中で暗く光っている。  ざざ、と草むらを鳴らす風の音が、人影の気配を完全に隠してしまっていた。  沼の汀で抱き合うと、蘇芳は橡の着物をするすると脱がせた。それから自分も瞬く間に同じ姿になり、横たわった橡の上に跨る。  しばし、指で橡の肌の上にある痕をなぞり続けた。殴られ、黒く変色している箇所もあれば、歯型と思われる痕まである。それらを手でなぞるたび、蘇芳は言い知れぬ口惜しさに唇を噛んだ。  私の橡に。なんということを。  けれどその激情が、今までになく自分を痺れさせることにも気付く。蘇芳は橡を口で潤し、自分のことも指で濡らしてから、腰を沈めた。入ってきた橡の形が、自分の中でゆっくりと質量を増す。  そんな大胆な蘇芳の姿に、橡は驚いた表情を見せた。が、その顔はすぐに愉悦の中に蕩け、二人は同じ律動で夜を刻み始める。互いの口から熱い吐息が零れ出る。  ともに昂ぶり、ともに達してからもしばらく、二人は繋がったまま相手の乱れた呼吸を聞いていた。やがて身を離した蘇芳は、ぬらぬらと濡れてきらめく互いの身体を愛しげに眺めながら、つぶやいた。 「橡。私と一緒にこの村を出ましょう」  蘇芳の下に広がる橡の肌が、びくりと震えた。蘇芳は彼の胸にぴたりと耳を寄せた。ぞく、ぞく、と鳴る身体の音が聞こえる。 「……できません」  それらの音の下から、橡の声が立ち上った。 「もし俺があなたたちと村を出たりしたら……大路が許さない。俺たちは三人とも殺される。だから蘇芳」 「いいえ。私が領主様にお願いします。あなたがこの村から出られるよう」  そう言うと蘇芳は起き上がり、橡を見下ろした。
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